名塩雁皮紙
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文明7年(1475年)に蓮如上人が名塩を訪れた際に[注釈 3]、越前から随行してきた紙漉き職人が名塩に留まって技術を伝えたとする説[9]

天正3年(1575年)に織田信長が越前一向一揆を鎮圧した際に、難を逃れた人たちが名塩に製紙技術を伝えたとする説[6]。北野昭はこれを有力とする[6]

天正8年(1580年)に名塩の杣木挽が木曽へ出稼ぎに行った際に製紙技術を習得したとする説[9]

折衷的な説として、

東山弥右衛門は杣木挽として木曽に出稼ぎに行った際に越前和紙の名声を聞き、越前に赴いて技術を習得したとする説[9]

さきに越前から製紙技術が伝わり、慶長のころに東山弥右衛門が泥土を混合する製法を開発したとする説[13]

寛永15年(1638年)刊行の俳諧書『毛吹草』で、諸国物産として「名塩鳥子」が挙げられており、江戸時代初期には名塩の和紙(鳥の子紙)が知られていたことがわかる。製紙業が繁栄した江戸時代、名塩は「名塩千軒」と呼ばれて繁栄した[2]

谷野武信によれば第二次世界大戦終戦時(1945年)には名塩に25,6軒の製紙業者がいたという[13]。当時はふすま紙が良く売れたというが[13]、戦後の生活様式の変化や、名塩周辺の開発の影響を受けて生産者は減少の一途をたどった[13]

名塩紙は1983年(昭和58年)に兵庫県無形文化財[注釈 4]に、1993年(平成5年)に兵庫県伝統的工芸品に指定された[2]

1989年(平成元年)には、西宮市立名塩小学校の付属施設として「名塩和紙学習館」が建てられ、紙漉き体験ができるようになった[9](2002年(平成14年)より、名塩和紙学習館は西宮市郷土資料館分館と位置付けられている)。塩瀬地域の小学校(名塩・東山台生瀬)では、紙漉きを体験する時間が設けられており、6年生は作った紙を卒業証書に使う[14][15]

2004年(平成16年)、谷野武信(たにの・たけのぶ、雅号は谷野剛惟)が重要無形文化財「名塩雁皮紙」保持者(人間国宝)に認定された[3]
脚注
注釈^ 名塩地区コミュニティ協議会会長。『名塩和紙の起源』を執筆した[6]
^ 「墓」と説明されることもある[11]
^ この際に蓮如が結んだ草庵が「名塩御坊」教行寺の起こりとされ、教行寺は蓮如創建と伝える。
^ 工芸技術分野。文化財名称は「名塩紙技術」。技術保持団体は「名塩紙技術保存会」。なお同時に加美町(現在の多可町)の「杉原紙技術」も文化財指定されている。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n “名塩紙”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2019年11月19日閲覧。
^ a b c d e f g h i “名塩紙”. 兵庫県の伝統的工芸品の紹介. 兵庫県. 2019年11月19日閲覧。


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