名古屋急行電鉄
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注釈^ 当時の福富監督局長は件の免許申請について交通政策上の問題を指摘の上で、6月末以来小川大臣に対して激烈な抗議を行ったが聞き入れられなかったため、一連の免許後に辞表を叩き付けて下野した。
^ この免許乱発は田中内閣総辞職のその日(1929年7月2日)まで続き、最終日の免許には参宮急行電鉄桑名延長線が含まれており、名古屋急行電鉄との将来的な競合について何ら考慮しないままに免許されたことが窺われる。
^ 直ちに小川は上訴したが最終的には有罪が確定した。なお、1940年恩赦により出獄している。
^ 当時、省線電車の初乗り運賃が5銭であった。
^ 後者の三書類は、申請に必要な主なるものである。
^ ただ、戦後になって京阪による名阪連絡は、名神高速道路の開通時に設立された日本急行バスへの出資と経営参加という形で実現した(後に京阪は出資を引き揚げ、日本急行バスも名古屋鉄道の完全子会社となった)。
^ 名古屋急行電鉄の挫折後、国家プロジェクトとして東京 - 下関間を標準軌で結ぶ弾丸列車計画が1930年代後半に立てられ、計画していたルートの一部もそれに組み入れられることになっていたが、その計画も太平洋戦争の激化により中止された。戦後、弾丸列車計画を引き継いだプロジェクトというべき東海道新幹線の開業は1964年である。
^ 後に天神橋駅は大阪市営地下鉄6号線開業に伴い、地下鉄の天神橋筋六丁目駅に代替される形で廃止
^ 開業の後、京阪神京都駅を経て大宮駅と改称
^ 梅田駅に乗り入れたのは阪急合併後。河原町駅への延伸は1963年
^ 現在の西向日駅
^ 山科線が予定されていたルートは現在の名神高速道路のルートに近い。
^ 厳密には名鉄名古屋本線金山駅が移転改称する前の金山橋駅付近(現在、ニッポンレンタカー金山駅前営業所のあるあたり)が候補地で、他に名古屋駅近くに総合駅を造る案も有していた。[要出典]
^ 後に名神高速道路に流用された。
^ 後の弾丸列車計画でも石榑トンネルで貫通するルートになっていた。また、戦後の東海道新幹線の建設にあたってもこのルートが検討されたこともあるが、技術や工期(1964年東京オリンピックに間に合わせることが条件であった)などの面から結局見送られ、東海道新幹線は関ヶ原を通るルートで建設された。
^ 1933年当時、日本最速の電車は阪和電気鉄道(現、JR西日本阪和線)が運行した「超特急」で、その表定速度は81.6 km/hであった。なお、この記録は戦後国鉄の特急「こだま」が更新するまで破られることはなかった。
^ 増備車であるP-6B形以降はコストダウンのため、内装などに木材を使用する半鋼製車体となり、側窓も通常の一重構造に変更された。なお、P-6形は最終的に貴賓車である500号を含む73両が製作され、路線長に比して過剰在籍両数となった。
^ 現在の近鉄大阪線山田線
^ 参宮急行電鉄線が建設中の1927年12月5日に三重県一志郡戸木村より名古屋へ至る支線の免許を申請している。
^ 1928年1月24日申請、1928年11月2日免許。
^ 津新地 - 新松阪間は1926年9月13日に免許申請を行い、1927年4月19日に免許を得ていた。この区間を含む津 - 宇治山田間の路線建設は伊勢電気鉄道の前身である伊勢鉄道(初代)以来の悲願であったが、大和鉄道→参宮急行電鉄による宇治山田への免許線は伊勢電気鉄道による1927年3月5日申請の山田線免許が却下される理由となっており、鉄道大臣が小川平吉に交代した後の1927年8月26日に再申請して、同年12月27日にようやくこの区間の免許を得ている。このように伊勢電気鉄道にとってこの時期の参宮急行電鉄は、最悪の競争相手にして自社計画の妨害者として機能していた。

出典^ a b c d e 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
^ 『鉄道ピクトリアル』通巻348号 p.13

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