名古屋城
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これは今後の工事の着手に必要な手続きや、その後の工事が想定通りに進んだ場合としての目安であるため、多少のずれが生ずる恐れもある[28]

構造
立地

名古屋城の城地は熱田台地の西北端に位置する。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野を一望に監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と防御に適した地勢であった。伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
縄張名古屋城(上)と名古屋の町割り

名古屋城の縄張は、それぞれのが長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。

構造の分類は一見三の丸の付き方から梯郭式とされるが本丸の周囲の6つの曲輪を一体と見なせば輪郭式と見なすこともできる、三分類のどれにも分類されない独特な縄張りである。また名古屋城は南方や東方から見れば高低差がほとんどなく平城であるが、北方や西方から見れば台地の上にある平山城とも言える。

曲輪の配置はほぼ正方形の本丸を中心として南東を二之丸、南面東寄りに大手馬出、南西を西之丸、北西を御深井丸(おふけまる)、北面東寄りに塩蔵構、東面北寄りに搦手馬出が本丸の四周を取り囲む。さらにそれらの南と東を三之丸が覆う。城の西と北は水堀および低湿地によって防御され、高低差のほとんど無い南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、外側の幅広い空堀や水堀に守られた外郭を構成した。

外側に、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、東は矢田川橋に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。また西の防備に、国境の木曾川御囲堤を築造した
本丸本丸御殿(木造復元)西南隅櫓 本丸空堀の鹿

本丸は北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。

南御門・東御門は堀の内側に高麗門櫓門の2重の城門で構成される枡形門[29]があり、堀の外側は、大手馬出と搦手馬出の大きな馬出しを構え、入口を2重3重に固めていた。外の郭から馬出を経由して本丸に入る場合、次の経路を通ることが強いられる。
馬出しへの土橋を渡り、石塁に突き当たり横に折れ、

本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、

馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、

二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、

一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。

大手馬出は三方を多聞櫓で構成している一方、搦手馬出は初期の計画では南と西を多門櫓が巡り、また北東に隅櫓台があるが、結局は塀すら無い未完の状態であった。現在大手馬出しの西面は埋められて平地になっており、搦手馬出は石垣の修復工事が行われている。

現状、門は表二之門(南二之門)のみが現存する。不明御門は埋門(うずみもん)形式であったが、戦災で焼失した。

隅櫓は総2層3階建てで、他城の天守に匹敵する規模である。外観は、それぞれで意匠を相違させた見栄えを重視した設計である。南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存し、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われて櫓台のみ残る。多聞櫓は、濃尾地震ですべてが破損して取り壊されて現存しないが、奥行は5メートル強で、内部に武具類や非常食を収納するなど十分な防御能力があった。

現在、空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放牧されている。
天守天守と御殿(焼失前)天守内部(焼失前)本丸の模型天守 遠景

天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先には槍の穂先を並べた剣壁であった。なお、『金城温古録』によると名古屋城(尾張藩)では「大天守」ではなく「御天守」と呼称されていた[30](以下では一般的な「大天守」としている)。

天守は政治権力の象徴とされ、特に名古屋城の大天守の屋根にある金鯱(金のしゃちほこ)はその究極にあるものといわれている[30]。上記のように本丸には多門櫓が巡っていたが、大天守には小天守との渡り廊下を含めて全て土塀が接している。これは多門櫓からの類焼を防ぐためと見られる。

大天守は層塔型で5層5階、地下1階、天守台19.5メートル、建屋36.1メートル、合計55.6メートルで18階建ての高層建築に相当する。高さは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、江戸城、大阪城天守は江戸時代前期にいずれも焼失しており、江戸時代通期で現存した天守で名古屋城天守が最も高かった。延べ床面積は4424.5m2で史上最大の規模である(各階平面の規模は、1階と2階が17間×15間、3階が13間×11間、4階が10間×8間、5階が8間×6間である)。体積は姫路城天守の約2.5倍で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高・防弾壁・防火区画など14項目で日本一である[31][32]。内部は長辺が7の大京間畳が1759畳敷き詰められていたといわれる。

最上層の5階と4階以下の下層階とは構造が異なり、下層階は防御のため壁面を多くし、最上層の5階は窓が四面に可能な限り広く取られ砲弾戦に備えられていた[30]

大天守内部に使われる柱は主に2階まで通る長い柱の「通し柱」と階ごとの柱の「管柱」の2種類の柱を使い分けて組み立てており、1755年(宝暦5年)の地震があった際に名古屋城の大天守の修理工事が行われた時の「名古屋城御天守各階間取之図」と言う修理図面によると1階と2階は「通し柱」が多く、3階から5階の柱は階ごとの「管柱」が殆で造られていた。耐震性の事を考えて揺れにも耐えられる様に柱と梁をどういう風に組み合わせ、「通し柱」をどこに配置するかなど精密に計算されて江戸時代当時、考えて大天守が造られていたと言う。

大天守の屋根は、1層目が通常の粘土瓦で、2層目以上のすべてが軽量で耐久性のある銅瓦で葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみが銅瓦で葺かれており4層目以下はすべて粘土瓦だった。その後行われた1755年(宝暦5年)の大天守修復工事で現在の再建天守に見られる銅瓦葺とされた。同時に雨水による屋根の負担を軽減する銅製の縦樋、破風を保護する銅板張、地階に採光する明かり取り窓を石垣の上に設ける、など補修された。

壁面は大砲による攻撃を考慮しての厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面は土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は化粧板が張ってあった。土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時は土壁を抜いて使用した。

小天守は2層2階、地下1階で、大天守の関門の役割をした。平面は長方形で外見は千鳥破風一つと簡素な意匠だが、規模は他の城の三重級の天守を上回る。

大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図[33]が残され、大天守台西面に開口部を塞いだ跡[34]が見られることなどから、大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたとする説がある。また入口も大天守に面した小天守北側でなく、指図には小天守西側に多門櫓による枡形門を介して入る形となっている。

天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城も免れた。1891年(明治24年)に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火した。

なお、当時名古屋城副監視長を務め、金鯱の降下作業に当たっていた原田尊信の証言では、足場を組むために天守最上階の南側の3つの窓を開けていたところ、そこから焼夷弾が飛び込んできて天守に類焼した。この時の天守閣全体が炎に包まれていく光景が、大日本帝国陸軍東海軍管区報道部所属の軍属であった岩田一朗により、東海軍管区司令部の屋上から撮影されている[35]

宮内省から名古屋城が下賜されて1930年(昭和5年)に天守が国宝に指定され、1932年(昭和7年)に国宝建造物の細部が実測されて1952年(昭和27年)に完了し、昭和実測図として清書図282枚、拓本貼付27枚の計309枚の図面が制作された。天守の図面は大天守56枚、小天守15枚である。

1954年(昭和29年)に、名古屋市民らにより名古屋城再建基金[36][37]が始まる。1957年(昭和32年)に、名古屋市制70周年記念事業として天守の再建が開始された。請負者の間組は、昭和実測図を基に再建天守は木造か否かで議論したが、当時の消防法に従うと木造の再建は不可能であった。焼失で傷んだ石垣自体へ建物重量の負荷を軽減するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の再建天守を載せる外観復元とした。起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日であった。再建天守の総工費は6億4千万円で、うち2億円は市民からの寄付である。竣工式は大々的に催す予定が伊勢湾台風の襲来直後となり極めて簡素に挙行された。再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子で5階へ昇ることができるバリアフリー構造である。5階から最上階展望室までは階段のみ。外観は昭和実測図に基づいてほぼ忠実に再現されたが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなもので下層の窓と意匠が異なる。当時の再建天守は観光センターとして位置づけられ、1962年(昭和37年)3月に博物館相当施設に指定されて以後、展示や催事に活用されて市民生活に寄与した。 SRC造天守内部の風景


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