名古屋城
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戦国時代「那古野城」も参照

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。

1538年(天文七年)、織田信秀今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。
江戸時代現代にみる清須越しの距離感。清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部)。2009年2月大天守石垣内で、「加藤肥後守内小代下総」(加藤肥後守の家臣、小代下総守(小代親泰))と刻まれた石

清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康1609年(慶長14年)に、九男義直尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めた。この名古屋への移転には木曽川庄内川を外堀として利用する防衛目的もあったと考えられ、移転決定と前後して木曽川には「御囲堤」、庄内川には「御囲禍堤」が建造されるなど治水工事が進められた[12]1610年(慶長15年)閏2月、未だ大阪城には豊臣秀頼が居る中、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始された。

造成・整地に当たる普請は普請奉行に滝川忠征佐久間政実牧長勝ら5名が任ぜられた。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高細川忠興毛利高政生駒正俊黒田長政木下延俊福島正則池田輝政鍋島勝茂毛利秀就加藤嘉明浅野幸長田中忠政山内忠義竹中重利稲葉典通蜂須賀至鎮金森可重前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し、延べ558万人[要出典]の工事役夫で8月末には天守台が完成し、9月頃には石垣を大方積み終え、遅い所も同年暮れまでには完成している[13]

普請の後、建築に当たる作事は、事奉行に大久保長安小堀政一ら9名が当たり、大工頭は中井正清が担当したが、当時の正清は内裏や方広寺大仏殿の建築も担当したため、正清の手代衆が現場の監督をした。作事は普請と並行して材木の調達が行われ、1612年(慶長17年)6月から本格的な建築工事が始まる。しかし家康から御殿より先の完成を命じられた天守の建築は、用材調達が遅れたため壁塗りに支障が生じる冬期までの完成が危ぶまれた。このため、正清は内裏や大仏殿の大工を一時的に呼び寄せてた上、自身も名古屋に出向き突貫工事を行った。結果として8月下旬に天守用の金物入札が行われた後、11月上旬に懸案の壁塗り工事が完了し、同21日には上棟式を実施し年内に天守は完成した。金物入札時期から組立工事は3ヶ月弱しか掛かっておらず、短期に完成した。本丸御殿の建築は、同年正月から始まり、完成したのは1615年(元和元年)2月である。

そして大坂冬の陣後の1615年4月、義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ家康も駿河からそれに出席するが、その最中に豊臣方挙兵の報が入りそのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼしている。

清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110か寺も移る徹底的なものである。こうして名古屋城の城下町は出来上がっていった。

また1615年に完成した本丸御殿だが、二の丸御殿が1617年に完成すると1620年に義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして1626年(寛永3年)に大御所徳川秀忠が、1634年(寛永11年)に、徳川家光が上洛の途中で立ち寄る。特に家光の御成の際は本丸御殿が大々的に増改築される。だがその後長い間将軍の御成は無かったか、1865年(慶応元年)に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に宿泊している。宿泊は1泊のみで入城の翌日には名古屋城を出発した。
近代

明治維新後の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、ドイツ公使マックス・フォン・ブラント日本陸軍第四局長代理だった中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。

1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)に名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。離宮時代の名残、本丸西南隅櫓に残された菊花紋瓦

保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。

1893年(明治26年)本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。

1906年(明治39年)名古屋離宮、一日限り特別公開する。

1910年(明治43年)小天守閣、隅櫓に旧江戸城の青銅鯱を移設する。

1923年(大正12年)宮内省が西南隅櫓を修復[14]する。

1928年(昭和3年)昭和天皇即位礼大典京都御所で執り行われることに伴い、お召し列車賢所乗御車を含む)を用いた東京の宮城?京都間の往路・復路に於いて昭和天皇及び香淳皇后が名古屋で途中下車して宿泊のため、名古屋離宮に滞在した[15]

1930年(昭和5年)離宮御用邸の整理計画の中で名古屋離宮が廃止され、宮内省から名古屋市に下賜された[16]。同1930年、建造物(24棟)が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定された。城郭としては国宝第一号[17]。本丸御殿障壁画も1942年国宝(旧国宝)に指定[17]

1931年(昭和6年)名古屋市は名古屋城を市民に一般公開した[14]。「恩賜元離宮」とも呼ばれた[18]

1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売却を図り発覚して1月28日に警察に逮捕された。

太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
現代雪が積もる復元工事着工前の本丸御殿跡と天守。雪のため御殿跡の配石がわかりやすくなっている。2008年2月10日21世紀の街並みの中の名古屋城。2018年3月

戦後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた[19]。園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年(昭和34年)に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。


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