名古屋城
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城郭としては国宝第一号[17]。本丸御殿障壁画も1942年国宝(旧国宝)に指定[17]

1931年(昭和6年)名古屋市は名古屋城を市民に一般公開した[14]。「恩賜元離宮」とも呼ばれた[18]

1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売却を図り発覚して1月28日に警察に逮捕された。

太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
現代雪が積もる復元工事着工前の本丸御殿跡と天守。雪のため御殿跡の配石がわかりやすくなっている。2008年2月10日21世紀の街並みの中の名古屋城。2018年3月

戦後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた[19]。園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年(昭和34年)に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、資金難で中止も検討された。

1994年(平成6年)5月14日 - 市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が設立された。

2002年(平成14年) - 名古屋市が本丸御殿復元の「名古屋城本丸御殿積立基金」寄附募集を開始した。

2007年(平成19年) - 本丸御殿の復元工事を文化庁が許可。

2006年(平成18年)4月6日 - 財団法人日本城郭協会によって日本100名城(44番)に選定された。

2009年(平成21年)

1月19日 - 本丸御殿復元工事に着手。

8月10日 - 河村たかし市長は定例記者会見で、名古屋城天守を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。計画プロジェクトチームを8月24日に発足させて2010年度予算案に調査費を計上する。


2011年(平成23年) - 西南隅櫓と旧二之丸東二之門が修理された。

2013年(平成25年)1月4日 - 名古屋市は、2013年度から名古屋城の天守を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。これまでに2010年度予算案で調査費1500万円を計上し、2012年(平成24年)3月に市民検討会を催した。復元費用の試算は300億円で、寄付金を含め調達方法を検討する[20][21]

2016年(平成28年)

6月27日 - 市長と市会が、天守の再建につき完成予定を2027年とすることで合意した[22]。後に竣工予定は2022年とされた。工費は試算で約500億円[23]だが圧縮を検討する[22]

10月12日 - 市長が天守閣は耐震性能が低いとして入場禁止にする意向を示した[24][25]


2017年(平成29年)4月24日 - 木造復元の賛否などを焦点とした市長選挙で河村市長が再選される。
復元工事中の天守。2018年9月19日

2018年(平成30年)

5月7日 - 工事に先立ち天守閣の入場を禁止する。

6月8日 - 復元された本丸御殿の一般公開を開始。


2019年(平成31年/令和元年)

6月21日 - 2022年12月に木造天守閣の復元が竣工する予定だったが、文化庁の文化審議会に諮問されていたコンクリート製現天守の解体申請が許可されず継続審議となり名古屋市は工期を見直す方針を示した[26]

8月29日 - 市長の河村は、予定していた2022年末の復元天守閣完成を断念すると発表した[27]


2023年(令和5年)3月 - 名古屋市は木造天守閣の工期を見直しで、具体的な完成時期を最短で2032年(令和14)度ごろになる見通しを初めて公表した。これは今後の工事の着手に必要な手続きや、その後の工事が想定通りに進んだ場合としての目安であるため、多少のずれが生ずる恐れもある[28]

構造
立地

名古屋城の城地は熱田台地の西北端に位置する。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野を一望に監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と防御に適した地勢であった。伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
縄張名古屋城(上)と名古屋の町割り

名古屋城の縄張は、それぞれのが長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。

構造の分類は一見三の丸の付き方から梯郭式とされるが本丸の周囲の6つの曲輪を一体と見なせば輪郭式と見なすこともできる、三分類のどれにも分類されない独特な縄張りである。また名古屋城は南方や東方から見れば高低差がほとんどなく平城であるが、北方や西方から見れば台地の上にある平山城とも言える。

曲輪の配置はほぼ正方形の本丸を中心として南東を二之丸、南面東寄りに大手馬出、南西を西之丸、北西を御深井丸(おふけまる)、北面東寄りに塩蔵構、東面北寄りに搦手馬出が本丸の四周を取り囲む。さらにそれらの南と東を三之丸が覆う。城の西と北は水堀および低湿地によって防御され、高低差のほとんど無い南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、外側の幅広い空堀や水堀に守られた外郭を構成した。

外側に、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、東は矢田川橋に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。


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