同志社英学校
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新島の構想は同志社病院・京都看病婦学校(1887年開設)、同志社波理須理化学校(1890年開校)、同志社政法学校(1891年開校)によってまがりなりにも実現を見たが、折からの国粋主義の台頭、新神学の流入による日本キリスト教界の混乱、さらに同志社を物心両面で支援してきたアメリカン・ボードとの対立に巻き込まれ、一時は1,000名近くに達した生徒数は1897年(明治30年)頃には約350名にまで激減した[6]

1898年(明治31年)2月、同志社は徴兵猶予の特典を得るために同志社綱領を改訂して校友・関係者の反発を招き、横井時雄社長以下社員総辞職の失態を演じた。翌年に同志社財団寄付行為が制定され、同志社は2代続けて社外者(西原清東片岡健吉)を社長に迎えた。

1904年(明治37年)専門学校令による同志社専門学校と同志社神学校を設けたが、その内実はリストラであり、理科学校・政法学校・病院・看病婦学校は閉鎖のやむなきに至った。

1907年(明治40年)、同志社は神戸教会牧師原田助を第7代社長に迎えてから再び上昇の機運を迎える。原田は1910年(明治43年)に欧米を歴訪して資金募集やアメリカン・ボードとの関係回復に努め、さらに校友会を中心とする大学設立運動により1912年(明治45年)、専門学校令による同志社大学を開設して神学部・政治経済部・英文科を置いた。しかし、開校当初は神学部を除いて京都帝大からの出向教員を中心に教授陣を編成せざるを得ず、真の自立した私学とは言い難い面があったのは事実である。

同志社大学が名実ともに大学令による制度上の大学に昇格したのは1920年(大正9年)4月のことである。
年表新島襄山本覚馬デイヴィス英学校最初の卒業生(1879年)

1874年 新島襄アメリカン・ボード第65年会(バーモント州ラットランド)に出席し、日本でのキリスト教主義大学設立の意志を表明。

1875年 京都寺町(現在の新島旧邸敷地)に開校する。教員2人(新島とJ.D.デイヴィス)、生徒8人。

1876年 山本覚馬から寄贈された今出川校地(相国寺二本松の旧薩摩藩邸跡地)に移転。余科(神学科)を併置。熊本バンド約35人が入学。

1877年 同志社分校女紅場を開設(現・同志社女子大学)。

1878年 旧二条関白邸跡に同志社女学校正式に開校。

1879年 第1回卒業式を挙行[7]

1880年 自鞭事件起こる。

1883年 「同志社社則」4ヵ条を制定。

1884年 彰栄館竣工(同志社最初の煉瓦建築)。

1885年 校友会を結成。

1886年 余科を廃し、神学専門科(英語神学科・邦語神学科)を設置。礼拝堂の献堂式を挙行。仙台に東華学校を設立(1892年廃校)。

1887年 医学校構想の一環として、同志社病院・京都看病婦学校を創設。同志社予備学校設置。書籍館(現・有終館)竣工。

1888年 同志社英学校と同志社予備学校を併せて同志社学院(予備学部、普通学部、神学部)設置。「同志社大学設立の旨意」を全国の主要な雑誌新聞に発表。「同志社通則」36ヵ条を制定。

1889年 同志社学院を同志社予備学校、同志社普通学校、同志社神学校と改称。

1890年 新島襄永眠。波理須(ハリス)理化学校を9月に開校。

1891年 政法学校開校。政治学科と理財科を置く。

1892年 波理須理化学校を波理須理科学校と改称。

1893年 同志社徽章を制定。

1894年 神学館(現・クラーク記念館)竣工。


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