同君連合
[Wikipedia|▼Menu]
1837年、女子の継承を認めないサリカ法によってヴィクトリア女王はハノーファー女王に即位せず、エルンスト・アウグストが即位し、同君連合が解消された。
英連邦王国グレートブリテン及び北アイルランド連合王国国王(英国)と元英国領の各国(カナダオーストラリアジャマイカなど)の元首
1931年ウェストミンスター憲章が公布され、当時自治領(ドミニオン)だったアイルランド自由国カナダニューファンドランド(後にカナダと統合)・オーストラリア連邦ニュージーランド南アフリカ連邦が事実上独立。その後、数々の変遷があり、英国の国王をほかの14か国(2021年 - )が自国の国王としている(詳細は英連邦王国を参照)。国王に代わって大権を行使する総督は各国の首相の推薦に基づいて任命され、各国政府の独立性は完全に近い。
グレートブリテン王インド皇帝
インド大反乱の後のムガル帝国滅亡によりヴィクトリア女王が1877年インド女帝として即位。インド帝国政府はイギリス政府の事実上の下部組織であったため、インド独立運動はまず「完全自治」をスローガンとして掲げた。1947年にインド帝国は解体され、引き続きイギリス(国王ジョージ6世)との同君連合となるドミニオン・オブ・インドドミニオン・オブ・パキスタンが分離発足することで両国は事実上の独立を果たす。第一次印パ戦争では同君連合内での戦争状態となった。インドは1950年、パキスタンは1956年に共和制に移行。
オランダ
イングランド王と
オランダ総督ネーデルラント連邦共和国
オランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位(1689年 - 1702年)。当時のオランダは連邦共和国であり、総督とは本来は国防軍の最高司令官で行政長官にすぎない。従って厳密には「同君連合」とは言えないが、総督職はオラニエ=ナッサウ家が世襲しており、事実上は君主制に近かった。
オランダ王及びネーデルラント諸公(ネーデルラント連合王国) 1815年 - 1839年
オラニエ=ナッサウ家による非公式の同君連合。1830年ベルギー革命によりベルギー離脱。1839年にベルギー独立承認および諸公国の分裂により消滅。ルクセンブルク大公国のみ残留。
オランダ王とルクセンブルク大公 1815年 - 1890年オラニエ=ナッサウ朝
当初、ルクセンブルクは上記のネーデルラント連合王国の一部であり、実質的にオランダの1州として統治される物的同君連合の形態であった。ベルギーの独立によってオランダ本国とルクセンブルクが分断された1839年以降は人的同君連合に近づいた。
北欧
デンマーク王とイングランド王(1013 - 1014

イングランド王とデンマーク王(1018年 - 1035年

デンマーク王とノルウェー王1028年 - 1035年
クヌーズ大王(在位1016年 - 1035年)による北海帝国
スウェーデン王とノルウェー王(1319年 - 1355年

ノルウェー王とスウェーデン王(1362年 - 1364年

デンマーク王・ノルウェー王
デンマーク・ノルウェー連合王国1380年 - 1396年)カルマル同盟、デンマーク=ノルウェーの前身。ノルウェー王位は1380年から1814年までデンマーク王家の下にあった。
デンマーク王ノルウェー王スウェーデン王
カルマル同盟による(1397年 - 1523年
デンマーク王とシュレースヴィヒ公およびホルシュタイン公1460年 - 1544年1773年 - 1864年)(オルデンブルク朝 - グリュックスブルク朝

デンマーク王とノルウェー王(1523年 - 1814年)(オルデンブルク朝、デンマーク=ノルウェー


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef