吉祥寺
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範囲

前述の通り、吉祥寺本町、吉祥寺北町、吉祥寺東町、吉祥寺南町を合わせた範囲が現在最も狭義での「吉祥寺」であり、さらに御殿山と中町を合わせた範囲がかつての大字「吉祥寺」である。後者の場合は三鷹駅に面した場所も含まれる。

一方「吉祥寺駅周辺」の意味で用いられる「吉祥寺」は、この範囲とは若干のずれがある。例えば武蔵野市御殿山と三鷹市井の頭にまたがる井の頭恩賜公園は「吉祥寺にある公園」と見なされている。『Hanako』(マガジンハウス)などの雑誌の吉祥寺特集では、吉祥寺駅から概ね1kmの範囲を「吉祥寺」と呼ぶこともあり、東は杉並区松庵西荻北、西は三鷹市下連雀、南は三鷹市井の頭や牟礼、北は練馬区立野町近辺までを含むこととなる。

人気のある地名であることから、不動産会社では三鷹市井の頭や下連雀、練馬区立野町にあるアパート・マンションを「吉祥寺の物件」として紹介していることが多い。また、京王線千歳烏山駅仙川駅つつじヶ丘駅などから徒歩でアクセス可能の三鷹市内の物件の場合でも、「吉祥寺からバスで?分」と紹介される場合がある。

「吉祥寺通り」周辺では、吉祥寺の名前を一部に冠する事業所やマンション等が、駅から2-3km離れた相当遠方まであり、北は練馬区関町南の店から、南は三鷹市新川の物件まで存在する。
交通
鉄道・バス

吉祥寺駅を参照。
道路

吉祥寺は下記の主要路線が交わり、各道路が東西南北に平行し、その囲まれた真ん中に吉祥寺駅及び中心街が広がる構造になっている。吉祥寺大通りを除いて車線数や車線幅は広くない。詳細は各道路の記事を参照。

東西

井の頭通り(南側)

五日市街道(北側)


南北

吉祥寺通り(西側)- 駅南側は「公園通り」とも呼ばれる。

吉祥寺大通り(東側)


歴史

明暦3年(1657年)、明暦の大火で江戸本郷元町(現在の文京区本郷一丁目東京都立工芸高等学校付近)に存在した諏訪山吉祥寺門前町が焼失した際、江戸幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の場を代地とし、5年期限で扶持米を与えて家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。

折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く人跡が少なかった武蔵野台地新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成された。移住者によっては、五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられた者もいた。しかし関東ローム層である土壌は肥沃とは言えず、農地は全て畑地であり、水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。

1923年大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。

1971年(昭和46年)の吉祥寺大通り完成を機に、商業地として本格的に発展するようになり、ファッション・文化、居住でも人気が高い街となった。その反面として、吉祥寺駅北東の近鉄百貨店裏に「近鉄裏」と俗称される風俗街が1970年代に形成された。市による環境浄化条例や客引き規制条例の制定、土地買い上げと風俗営業法の規定を利用した吉祥寺図書館建設による牽制などで、風俗店はピークの1970年代末の約90軒から十数軒へ激減した[3]
地名の由来

吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことによる。当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
沿革

1653年承応2年)11月 - 玉川上水が開通。

1657年明暦3年)1月18日 - 明暦の大火。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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