吉田茂
[Wikipedia|▼Menu]
なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣厚生大臣小磯内閣軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人で、当時からよく間違えられた。(吉田茂 (内務官僚)#同姓同名 参照)
生涯
生い立ち

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区[注釈 1]に生まれる[2]。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[1]。実母の身元はいまでもはっきりしない[1]。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[1]小学時代の吉田

吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新(めいじいしん)をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の所産であった[3]

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]。養父・健三が40歳で死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っている[5]
学生時代

少年期は、大磯町西小磯で養母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

同年9月から、日本中学(日本学園中学校・高等学校の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校一橋大学の前身)に籍を置くが、商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾東京物理学校東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科学習院大学の前身)を卒業した。

同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅の他、武者小路公共池邊龍一林久治郎藤井實らがいた。
外交官時代

1918年山東省済南領事として勤務していた吉田は、岳父の牧野伸顕と共にパリ講和会議に出席した[6]。当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[7]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満洲事変以後もその点で一貫していた[8]中華民国奉天総領事館総領事を務めた時代に東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官[2]に就任する[注釈 2]

1931年より駐イタリア大使、但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、このころ第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[注釈 3]統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた[10][11]

1936年(昭和11年)の二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣内閣書記官長を予定したが、寺内寿一陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後日本軍はアメリカ本土空襲レンネル島沖海戦オーストラリア空襲など一部勝利を重ねたため成功しなかった。

しかし1945年に入り日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[12]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[注釈 4]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[12][2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:277 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef