吉田満
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吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した[5]

そして、父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した[6][9]。同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した[6][10]

大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された[6]

同年の12月、吉田は日本銀行に入行し、統計局勤務となった[1]。翌年1946年(昭和21年)3月に外事局勤務となった吉田は、4月1日の勤務中に評論家の小林秀雄の訪問を受けた。小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの文学になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た[6][9][11]

吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった[6][11]。小林はCCDに抗議文を出し、白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった[6](その後の初刊行まで詳細経緯は戦艦大和ノ最期を参照)。

白洲次郎の夫人・白洲正子によると、白洲への依頼時に小林は吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという[12][13]
キリスト教との出会い

吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、この戦記の回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会・今田健美(こんだたけみ)神父(1910年生 - 1982年没)から、来てほしいとの誘いを受けた[7]。それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、思い切って訪ねていった[7][14]

神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、2人は一夜を語り明かした[7]。この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた[7][14]

それが端緒となり、「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」を感じた吉田は[7]、その後カトリックに入信し、25歳となった1948年(昭和23年)3月28日にカトリック世田谷教会で洗礼を受け、同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した[1]

当時日銀では、有志が集まり毎週金曜日の営業時間後に今田神父による「公教要理講解」を聴講しており、同年5月には、吉田が『今田健美神父述・公教要理講解筆記録』をまとめ、「今田神父へ捧ぐ」という短歌も作った[1][14]。クリスマスには、吉田が創作した4幕の戯曲「犠牲」が世田谷教会で上演された[14]。この劇はキリスト教の真理性をめぐる葛藤に悩む青年と神父との対話が軸になった作品で、吉田自身がこの青年役を演じた[14]

その後、1949年(昭和24年)2月にプロテスタント教徒の中井嘉子と婚約し、5月に世田谷教会で結婚式を挙げた[1][14]。翌年1950年(昭和25年)の7月の27歳の時に、長女の未知を授かった[1][15]。しかしながら、同年9月、東大の屋内体育館で友人たちとのバドミントンに参加した際、みんなが飲むサイダーの栓を抜くため屋外の鉄柵でサイダー瓶の口をこすって開けている最中、最後の瓶が破裂し眼球を直撃する事故となり右眼を失明した[16][17]。吉田は1か月ほど入院し右眼は義眼となった[18]

それらの出来事の間、検閲により全文削除処分になっていた吉田の戦記は、改定を重ね口語体にしてみたり、端折ったりしながら、『新潮』や『サロン』に掲載するなどの挑戦を重ねた末に、初稿版と同じではないものの、文語体で1952年(昭和27年)8月に創元社からやっと初刊行された[6]

1956年(昭和31年)12月には長男・望を授かった[1][19]。妻・嘉子が日本基督教団駒込教会の会員であったので、同教会牧師鈴木正久と親交を温める中、吉田は悩み迷いながらもプロテスタントの駒込教会(1958年から西片町教会と改称)に入会した[14][20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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