吉田拓郎
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注釈^ 例外として、「オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル」の出演。
^ 好きだったモデル・入江美樹小澤征爾の妻)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの[16]
^ 吉田正廣は郷土史研究のため、鹿児島に単身赴任していたが[48]、仕事も一段落つき、広島に戻る予定の矢先に亡くなった[48]。拓郎のブレイク直前のことだったという[48]
^ 地方のグループ・サウンズの一つとして紹介されることがある[59]
^ 多彩な音楽性で知られる拓郎は、広島フォーク村のコンサートで中山千夏の「あなたの心に」の替え歌を演ることもあったという[74]
^ 社名は小室等の愛娘・こむろゆいに因む[105]
^ この時、吉田拓郎を弁護し、早期の釈放・不起訴へと促したのが、後に企業弁護士として著名となる久保利英明である[127]
^ 20歳近く年下の松浦勝人社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した。
^ 客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の第3回の中津川フォークジャンボリーでの暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った[162]。耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった[163]。当時は“帰れ”というためだけにコンサートに来る者もいた[164]
^ 1972年4月22日日本武道館、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある[166]。拓郎、岡林信康以外の出演者は、三上寛六文銭ガロはっぴいえんど遠藤賢司かまやつひろし加川良五つの赤い風船山下洋輔トリオほか。
^ 針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる[197]
^ ステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる[199]
^ 本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため[211]
^ 桑田佳祐は自著「ロックの子」の中で、拓郎の"字余り"や"コマーシャルソングにはまったと話している[258]
^ 音楽界に於ける、です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている[271]
^ 小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。
^ 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた[304]。歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる[305]。1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」[306]など。
^ 武部聡志は「『イメージの詩』は言いたいことが沢山あって、8番だか10番まであった。それがあったからこそ吉田拓郎というアーティストは評価され、強烈なインパクトを与えることができたんだと思う」と述べている[307]
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