竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある[注釈 2]。
妻は森下愛子(1986年結婚)[出典 5]。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)[出典 6]→浅田美代子(1977年 - 1984年)[出典 7]。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[出典 8]、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である[出典 9]。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして[出典 10]、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした[出典 11]。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している[44]。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される[45]。 父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため[出典 12]、吉田家は戦前、朝鮮京城(現在のソウル特別市)で暮らした[7]。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世[7]。長兄1人、次女までは朝鮮で生まれ[7]、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ[7]、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれた[出典 13]。1952年春、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し[7]、谷山小学校に2年生まで在学した[出典 14](歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣[出典 15][注釈 3]。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた[8]。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している[8]。1955年に両親が別居し[47]、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し[出典 16]、9歳小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育った[出典 17]。1955年4月、広島市立皆実小学校へ転校[出典 18]。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が[7]、夏休み等に女性同伴で帰省したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった[出典 19]。小児喘息の持病があり[14]、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったという[14]。
来歴
生い立ち