1912年(明治45年)、東京千駄ヶ谷宮内省官舎に生まれた[注釈 1]。父の茂は当時外交官としてヨーロッパにおり、母雪子も出産後茂の元へ向かったため、健一は6歳まで母方の祖父でもある牧野伸顕に預けられた[3]。1918年(大正7年)、4月、学習院初等科に入学したが、父に随い青島へ行き、その後、1919年パリ、1920年ロンドンに赴く。ストレタム・ヒルの小学校に通う。1922年天津に移り、イギリス人小学校に通う[4]。1923年(大正12年)、夏休みの一時帰国時に箱根に滞在。大震災の影響を免れる[5]。1926年(大正15年)、天津の学校より暁星中学へ2年次編入[5]、1930年(昭和5年)3月に同校を卒業し、10月、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学した[注釈 2]。同カレッジのフェロウであるG・ロウェス・ディッキンソン、F・L・ルカスらに師事[8]。また同カレッジの学生監ジョージ・ライランズのジョン・ダン講義などに出席。ケンブリッジ時代に、それまでもあった濫読癖が刺戟され、ウィリアム・シェイクスピアやシャルル・ボードレール、ジュール・ラフォルグなどに熱中した。しかし、自分は「日本に帰ってから文士になる積り」だが、十代の終わりの時期を「英国で文学の勉強をして過ごすことがどの程度に役に立つものが疑問に」なり、冬のある日に日本に戻ることをディッキンソンに告げた[9]。ディッキンソンは即座に了承し、「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」と語った[10]。そこで1931年(昭和6年)3月に中退し[注釈 3]、帰国途中ローマに赴任していた父親を訪ねて経過を報告[11]。その後ロシアからシベリア鉄道で日本に着いた[12]。同年、親戚[注釈 4]の病気見舞に行き、河上徹太郎と識り[13][14]、以後河上に師事した。しばらくしてアテネ・フランセへ入り、フランス語、ギリシャ語、ラテン語を習得した[15]。 1935年(昭和10年)6月アテネ・フランセを卒業。同年、ポーの『覚書』の訳を刊行[16]、その後『文學界』への寄稿を始め、当初はフランス文学の翻訳やフランスの時事文化の流行紹介を行う。1937年(昭和12年)夏、中村光夫と識る[注釈 5]。1939年(昭和14年)1月、最初の評論「ラフォルグ論」を文學界に掲載[16]。同年7月より祖父・牧野伸顕の談話記録を「松濤閑談」の題で文藝春秋に連載。同年8月、中村光夫、山本健吉、伊藤信吉らと文芸同人誌『批評』を創刊[16]。1941年(昭和16年)5月、野上豊一郎・彌生子夫妻の媒酌で大島信子と結婚。同年12月より『批評』にヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説」翻訳を連載。1944年(昭和19年)5月の発行で『批評』を表向き廃刊とする。1945年(昭和20年)5月に、海軍横須賀海兵団に二等主計兵として一度召集されるも、そのまま敗戦復員し福島に住む。同年10月上京。1946年(昭和20年)5月に鎌倉市に転居。7月より牧野伸顕の談話記録『回顧録』を、中村光夫と協力し文藝春秋に掲載(文藝春秋新社で出版。年譜作成は従叔父の大久保利謙。後年に中公文庫で再刊)。 1948年(昭和23年)に中村光夫、福田恆存と3人で始めた各界の専門家を客人として招いた集いが「鉢の木会」に発展する。 主な交友関係には戦前からは河上や中村光夫・横光利一の他に、石川淳・大岡昇平・小林秀雄・白洲正子・福原麟太郎・神西清・福田恆存、戦後は三島由紀夫・ドナルド・キーン・篠田一士・丸谷才一[注釈 6]らがいる。 1949年(昭和24年)4月、折口信夫による招請もあり、國學院大學非常勤講師となる。同年5月より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[注釈 7]。1951年(昭和26年)5月、チャタレイ裁判の弁護側証人として法廷に立つ。1953年(昭和28年)1月、東京都新宿区に転居。同年8月に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1958年(昭和33年)10月、同人雑誌『聲』発刊に参加[注釈 8]。1960年(昭和35年)2月、河上徹太郎と金沢へ。以後吉田死去の年までの年中行事となる。同年12月、亀井勝一郎編集『新しいモラルの確立』に「信仰への懐疑と否定」を掲載[注釈 9]。
文芸誌に寄稿(1935-1946)
翻訳・文芸批評(1947-)