金沢・福光屋の日本酒の銘柄「黒帯」の命名者である[47]。「有段者のための酒」という意味が込められている[48]。
家族・親族
祖父・牧野伸顕(母方の祖父)
祖父・吉田健三(戸籍上の父方の祖父)
祖父・竹内綱(血縁上の父方の祖父)
父・吉田茂
母・吉田雪子
姉・吉田桜子
妹・麻生和子
弟・吉田正男
義弟・麻生太賀吉(和子の夫)
甥・麻生太郎
甥・麻生泰
姪・相馬雪子
姪・荒船旦子
姪・ェ仁親王妃信子
妻・信(旧姓・大島)1915年-1996年9月14日
(よしだ のぶ)信子とも。元仙台鉄道局長で西武鉄道の社長を務めた大島清と妻・千枝(平生釟三郎の次女)の長女[49]。吉田の弟・正男から相談を受けた野上彌生子が縁談をまとめた[49]。結婚披露宴は1941年5月13日に帝国ホテルで開かれた[50]。媒酌は野上豊一郎・彌生子夫妻[50]。奈良に新婚旅行し、奈良ホテルに滞在した[51]。大の競馬好きだった[52]。喪服が嫌いだった吉田の葬儀では色喪服を着用した[53]。81歳没[54]。
長男・吉田健介(物理学者)
(よしだ けんすけ)1942年9月12日[55]-2008年8月29日清泉女学院小学校から暁星小学校に転入[56]。暁星中学校・高等学校を卒業し、1961年東京大学理科一類に進学[57][58]。大学2年の夏にケンブリッジ大学に留学[58]。ケンブリッジ大学で博士号を取得[58][59]。イギリスのダラム大学、イタリアのナポリ大学で研究を行う[58]。1974年にイタリア人女性と結婚[60]。ミラノ大学教授[58]、のちローマ大学教授[58]として国際的に活躍した[59]。娘のエレナがいる[58][60]。2008年8月29日、東京聖路加国際病院で肝臓癌のため死去[58][60]。久保山墓地に分骨されている[58]。
長女・吉田暁子(翻訳家)1945年-
父の愛読書『最後に見たパリ』(エリオット・ポール(Elliot Paul, 1891 - 1958)、河出書房新社、2013年)を訳した。
受賞歴
1957年(昭和32年) 『シェイクスピア』で読売文学賞(文芸評論部門)
1957年(昭和32年) 『日本について』で新潮社文学賞
1970年(昭和45年) 『ヨオロッパの世紀末』で野間文芸賞
1971年(昭和46年) 『瓦礫の中』で読売文学賞(小説部門)
著作
『英国の文学』(雄鶏社[注釈 13] 1949年(装幀青山二郎)、創元文庫 1951年、新潮文庫 1954年/定本・垂水書房 1963年、岩波文庫 1994年)
処女作で、1963年の改訂版では文章が全面的に改稿[62]。中世のチョーサー及びマロリーの評に始まり、19世紀末から20世紀の記述[62]はわずか。
『シェイクスピア』(池田書店 1952年/増訂版・垂水書房 1956年、新潮文庫 1961年・復刊1994年)
『宰相御曹司貧窮す』(文藝春秋新社 1954年)
初の随筆集[63]。私家限定版30部の標題は『でたらめろん』。出版に際し、吉田は「でたらめろん」の題を希望したが、文藝春秋社は「宰相御曹司貧窮す」を強く主張した。その結果、一般販売用は「宰相御曹司貧窮す」とし、「でたらめろん」は著者用に30部つくって贈呈することで決着した[64]。私家版No.1は吉田茂宛で「パパへ 健一」と署名、No.11を自らの所蔵にした[64]。
『東西文学論』(新潮社〈一時間文庫〉1955年、垂水書房 1966年/新編「東西文学論・日本の現代文学」講談社文芸文庫)
『随筆 酒に呑まれた頭』(新潮社 1955年)、番町書房 ユーモアエッセイ集(増補版 正・続)、ちくま文庫(新編)- 短編も収録
『文学あちらこちら』(東方社 1956年)- 新書判
『乞食王子』(新潮社 1956年、のち垂水書房、番町書房、講談社文芸文庫)
『三文紳士』(宝文館 1956年、のち垂水書房、筑摩書房、講談社文芸文庫)
『近代文学論』(垂水書房 1957年)
『文学人生案内』(東京創元社 1957年、のち垂水書房、講談社文芸文庫)
『英語上達法』(垂水書房 1957年、改訂版1961年)
『甘酸っぱい味』(新潮社 1957年/ちくま学芸文庫 2011年※)
『日本について』(大日本雄弁会講談社 1957年)
『酒宴』(東京創元社 1957年、垂水書房 1966年/のち「金沢・酒宴」講談社文芸文庫)- 短編集