吉田健一が1972年にユリイカに連載した「交遊録」には、祖父牧野伸顕に続き恩師ディッキンソンとルカスがあげられていて、ケンブリッジ留学時の二人との交遊が詳しく綴られている。また吉田は英国留学から帰国後も、二人の師共に手紙をやりとりしていた[10][42]。ディッキンソンは1932年に没したが、ルカスとは戦後1953年と1963年の2回、吉田の渡英時に再会している[43]。吉田がルカスへ送った書簡は、ルカスが1967年に没した後にルカス夫人から吉田の娘暁子に譲られ[42]、前述のとおり2022年に神奈川県立近代文学館で開催された「吉田健一展」で展示された[30]。 1954年2月、雑誌「あまカラ
酒をめぐって
金沢・福光屋の日本酒の銘柄「黒帯」の命名者である[47]。「有段者のための酒」という意味が込められている[48]。
家族・親族
祖父・牧野伸顕(母方の祖父)
祖父・吉田健三(戸籍上の父方の祖父)
祖父・竹内綱(血縁上の父方の祖父)
父・吉田茂
母・吉田雪子
姉・吉田桜子
妹・麻生和子
弟・吉田正男
義弟・麻生太賀吉(和子の夫)
甥・麻生太郎
甥・麻生泰
姪・相馬雪子
姪・荒船旦子
姪・ェ仁親王妃信子
妻・信(旧姓・大島)1915年-1996年9月14日
(よしだ のぶ)信子とも。元仙台鉄道局長で西武鉄道の社長を務めた大島清と妻・千枝(平生釟三郎の次女)の長女[49]。吉田の弟・正男から相談を受けた野上彌生子が縁談をまとめた[49]。結婚披露宴は1941年5月13日に帝国ホテルで開かれた[50]。媒酌は野上豊一郎・彌生子夫妻[50]。奈良に新婚旅行し、奈良ホテルに滞在した[51]。大の競馬好きだった[52]。喪服が嫌いだった吉田の葬儀では色喪服を着用した[53]。81歳没[54]。
長男・吉田健介(物理学者)
(よしだ けんすけ)1942年9月12日[55]-2008年8月29日清泉女学院小学校から暁星小学校に転入[56]。暁星中学校・高等学校を卒業し、1961年東京大学理科一類に進学[57][58]。大学2年の夏にケンブリッジ大学に留学[58]。ケンブリッジ大学で博士号を取得[58][59]。イギリスのダラム大学、イタリアのナポリ大学で研究を行う[58]。1974年にイタリア人女性と結婚[60]。ミラノ大学教授[58]、のちローマ大学教授[58]として国際的に活躍した[59]。娘のエレナがいる[58][60]。2008年8月29日、東京聖路加国際病院で肝臓癌のため死去[58][60]。久保山墓地に分骨されている[58]。
長女・吉田暁子(翻訳家)1945年-
父の愛読書『最後に見たパリ』(エリオット・ポール(Elliot Paul, 1891 - 1958)、河出書房新社、2013年)を訳した。
受賞歴
1957年(昭和32年) 『シェイクスピア』で読売文学賞(文芸評論部門)
1957年(昭和32年) 『日本について』で新潮社文学賞
1970年(昭和45年) 『ヨオロッパの世紀末』で野間文芸賞
1971年(昭和46年) 『瓦礫の中』で読売文学賞(小説部門)
著作
『英国の文学』(雄鶏社[注釈 13] 1949年(装幀青山二郎)、創元文庫 1951年、新潮文庫 1954年/定本・垂水書房 1963年、岩波文庫 1994年)
処女作で、1963年の改訂版では文章が全面的に改稿[62]。中世のチョーサー及びマロリーの評に始まり、19世紀末から20世紀の記述[62]はわずか。
『シェイクスピア』(池田書店 1952年/増訂版・垂水書房 1956年、新潮文庫 1961年・復刊1994年)