吉田健一_(英文学者)
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同年から毎年多くの著作を刊行し続けていたが、1977年(昭和52年)にヨーロッパ旅行中に体調を崩し帰国即入院 [注釈 11]、回復退院したが、8月3日に新宿区の自宅で亡くなった[20]。戒名は文瑛院涼誉健雅信楽居士[21]。同年8月5日、葬儀は近親者・友人のみで密葬が執り行われ[22]、友人代表として挨拶した河上徹太郎ラフォルグの詩『簡単な臨終』の一節を誦んだ[23]
没後

墓は神奈川県横浜市久保山墓地にある[24]。以前は父母とは同じ墓に入らず養祖父である吉田健三の墓に眠っていたが、1998年(平成10年)に娘の暁子によって改葬され[25][26]、墓石の文字は中村光夫によって書かれた[24]。新宿の邸宅は、健一の死後、2016年に売却されるまで娘の暁子(主にフランス語書籍の翻訳に携わる)が居住していた[27][28]

2016年には遺族から資料約5700点が神奈川近代文学館に寄贈され「吉田健一文庫」として保存されている[29][30]

2022年4月2日から5月22日、神奈川近代文学館にて特別展「生誕110年 吉田健一展 文學の樂み」[29][30][31]が開催された。編集委員は富士川義之[30]。初めての大規模回顧展で[32]、ケンブリッジ大学で指導を受けたルカスあての書簡[32]や、展覧会の準備中に発見された吉田満戦艦大和ノ最期』の異稿[33]が初公開された[32]ほか、鉢の木会の様子がわかる写真や書簡などが展示された[32]
影響

ピチカート・ファイブのメンバー小西康陽がエッセイ「長崎」の一節をしばしば引用し、トリビュート・アルバムのタイトル(『戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-』)にも使われている[34]。「戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語っつてゐる感じがするのである。」

また、後期の谷崎潤一郎の作風に大きな影響を受け、吉田健一の後期の文章に見受けられる句読点が極端に少なく息の長い官能的な文章には、谷崎へのリスペクトの影響がある[35]
人物像・エピソード

生涯犬を愛し、もる、さぶ、彦七、三匹の雑種を飼った。全て牝犬だったが、「音が可愛いから」という理由で命名した。散歩や餌やりなど、自ら面倒をみた。『埋もれ木』が単行本になった時に献辞を「彦七に」とした[36]。新宿区払方町の家の寝室のクローゼットの上に、彦七の小さな骨壺を大切に置いていた。年齢を理由に、三代目の彦七の死後、犬は飼おうとしなかった[37]
父親との関係

戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、1941年10月の母・雪子の死後、父が長年関係があった新橋芸者「こりん」こと坂本喜代(のち喜代子と称する)を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。『佐藤栄作日記 第三巻』(朝日新聞社)によると、1967年秋の吉田茂没後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。

復員後、酔って水兵服姿で父の官邸を訪れ、警備の警察官に追い払われたことがある[38]

父の影響もあってシェリー酒が大好きで『饗宴』の中には現存する銘柄も多く挙げられている。またその手軽さから遠方への移動にもシェリー酒を持参。「汽車旅の酒」には、その好きな様子が描かれている。

父の国葬については頑なに反対し続けるが、周囲の説得に押され、家族の中で最後に承諾[38]1967年10月31日に挙行された際には、喪主をつとめた[38][39]喪服を好まず、中村光夫から喪服を借りた[40]

1970年には高額所得番付で作家部門5位にランクされたが、これは父親の遺産が計上されたもの。借金を返して無くなったとのコメントが残されている。戦争直後、父親に反発するように担ぎ屋や乞食を経験(のちに『乞食王子』に上梓)した吉田であるが、自宅の茶の間には父親のトレードマークとも呼べるキューバ産の葉巻があったことが新聞記者により目撃されている[41]
恩師との交遊

吉田健一が1972年にユリイカに連載した「交遊録」には、祖父牧野伸顕に続き恩師ディッキンソンとルカスがあげられていて、ケンブリッジ留学時の二人との交遊が詳しく綴られている。また吉田は英国留学から帰国後も、二人の師共に手紙をやりとりしていた[10][42]。ディッキンソンは1932年に没したが、ルカスとは戦後1953年と1963年の2回、吉田の渡英時に再会している[43]。吉田がルカスへ送った書簡は、ルカスが1967年に没した後にルカス夫人から吉田の娘暁子に譲られ[42]、前述のとおり2022年に神奈川県立近代文学館で開催された「吉田健一展」で展示された[30]
酒をめぐって

1954年2月、雑誌「あまカラ[注釈 12]の編集長、水野多津子の案内で灘の菊正宗酒造の工場を見学した[45]。以降、毎年2月の新酒の時期に灘を訪れた[45][46]


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