吉田健一_(英文学者)
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同年12月より『批評』にヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説」翻訳を連載。1944年(昭和19年)5月の発行で『批評』を表向き廃刊とする。1945年(昭和20年)5月に、海軍横須賀海兵団に二等主計兵として一度召集されるも、そのまま敗戦復員し福島に住む。同年10月上京。1946年(昭和20年)5月に鎌倉市に転居。7月より牧野伸顕の談話記録『回顧録』を、中村光夫と協力し文藝春秋に掲載(文藝春秋新社で出版。年譜作成は従叔父の大久保利謙。後年に中公文庫で再刊)。
翻訳・文芸批評(1947-)

1948年(昭和23年)に中村光夫、福田恆存と3人で始めた各界の専門家を客人として招いた集いが「鉢の木会」に発展する。

主な交友関係には戦前からは河上や中村光夫・横光利一の他に、石川淳大岡昇平小林秀雄白洲正子福原麟太郎神西清・福田恆存、戦後は三島由紀夫・ドナルド・キーン篠田一士丸谷才一[注釈 6]らがいる。

1949年(昭和24年)4月、折口信夫による招請もあり、國學院大學非常勤講師となる。同年5月より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[注釈 7]1951年(昭和26年)5月、チャタレイ裁判弁護側証人として法廷に立つ。1953年(昭和28年)1月、東京都新宿区に転居。同年8月に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1958年(昭和33年)10月、同人雑誌『聲』発刊に参加[注釈 8]1960年(昭和35年)2月、河上徹太郎と金沢へ。以後吉田死去の年までの年中行事となる。同年12月、亀井勝一郎編集『新しいモラルの確立』に「信仰への懐疑と否定」を掲載[注釈 9]1963年(昭和38年)4月から1970年(昭和45年)3月まで中央大学文学部教授。1969年(昭和44年)7月号で創刊した『ユリイカ 詩と批評』で「ヨオロツパの世紀末」[注釈 10]を連載開始。

同年から毎年多くの著作を刊行し続けていたが、1977年(昭和52年)にヨーロッパ旅行中に体調を崩し帰国即入院 [注釈 11]、回復退院したが、8月3日に新宿区の自宅で亡くなった[20]。戒名は文瑛院涼誉健雅信楽居士[21]。同年8月5日、葬儀は近親者・友人のみで密葬が執り行われ[22]、友人代表として挨拶した河上徹太郎ラフォルグの詩『簡単な臨終』の一節を誦んだ[23]
没後

墓は神奈川県横浜市久保山墓地にある[24]。以前は父母とは同じ墓に入らず養祖父である吉田健三の墓に眠っていたが、1998年(平成10年)に娘の暁子によって改葬され[25][26]、墓石の文字は中村光夫によって書かれた[24]。新宿の邸宅は、健一の死後、2016年に売却されるまで娘の暁子(主にフランス語書籍の翻訳に携わる)が居住していた[27][28]

2016年には遺族から資料約5700点が神奈川近代文学館に寄贈され「吉田健一文庫」として保存されている[29][30]

2022年4月2日から5月22日、神奈川近代文学館にて特別展「生誕110年 吉田健一展 文學の樂み」[29][30][31]が開催された。編集委員は富士川義之[30]。初めての大規模回顧展で[32]、ケンブリッジ大学で指導を受けたルカスあての書簡[32]や、展覧会の準備中に発見された吉田満戦艦大和ノ最期』の異稿[33]が初公開された[32]ほか、鉢の木会の様子がわかる写真や書簡などが展示された[32]
影響

ピチカート・ファイブのメンバー小西康陽がエッセイ「長崎」の一節をしばしば引用し、トリビュート・アルバムのタイトル(『戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-』)にも使われている[34]。「戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語っつてゐる感じがするのである。」

また、後期の谷崎潤一郎の作風に大きな影響を受け、吉田健一の後期の文章に見受けられる句読点が極端に少なく息の長い官能的な文章には、谷崎へのリスペクトの影響がある[35]
人物像・エピソード

生涯犬を愛し、もる、さぶ、彦七、三匹の雑種を飼った。全て牝犬だったが、「音が可愛いから」という理由で命名した。散歩や餌やりなど、自ら面倒をみた。『埋もれ木』が単行本になった時に献辞を「彦七に」とした[36]。新宿区払方町の家の寝室のクローゼットの上に、彦七の小さな骨壺を大切に置いていた。年齢を理由に、三代目の彦七の死後、犬は飼おうとしなかった[37]
父親との関係

戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、1941年10月の母・雪子の死後、父が長年関係があった新橋芸者「こりん」こと坂本喜代(のち喜代子と称する)を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。『佐藤栄作日記 第三巻』(朝日新聞社)によると、1967年秋の吉田茂没後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。


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