吉本隆明
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これは、1960-80年代のみならずソ連の解体・冷戦構造崩壊後の1990年代も続いた[45][注釈 28]小熊英二は、吉本は、1961年には、弱者への罪責感をかきたてることで党への献身をひきだす「『前衛』的なコミュニケーションを拒否して生活実態の方向に自立する」ことを主張し、1960年代中期から、家族と恋愛関係の中にこそ、国家をこえる「私」的な共同性(「対幻想」)を見出し、「生産の高度化がうながした大衆社会の力」「大衆の政治的アパシーの力」を賞賛していくことになった、と論じている[40]。また宮台真司は、「吉本の意図とは全く無関係に生じたこと」だが「大衆から遊離した素朴な党派的政治運動を批判する「自立思想」は、全共闘世代が党派的運動や政治運動一般から離脱し、等身大の生活世界に退却していくことを正当化する口実を与え」たと述べている[46]
「傍系」について

竹内洋は、吉本は京橋区の下町の船大工の家庭に生まれ、東京府立化学工業学校、米沢高等工業学校、東京工業大学の学歴を歩み、東京府立化学工業学校は実業学校、米沢高等工業学校は専門学校であり、旧制中学や旧制高校を正系とする戦前の学歴では傍系学歴となり、大学卒業後、会社に勤めたが、組合活動をおこない馘首、隔日の特許事務所に勤務し生計を立てつつ作家活動をおこない、その後フリーランスとなり、大学教師の経歴はなく、山の手に対する下町、正系学歴に対する傍系学歴と、「正系」(丸山眞男)、「正系的傍系」(清水幾太郎)、「傍系」(鶴見俊輔)でもない、正系にもっとも遠い立ち位置にいた「傍系的傍系」と評している[47]。竹内によると、吉本は傍系について島尾敏雄との対談で「……ひとつは、ぼくなんかもそのくちなんですが、島尾さんの少年から青年までの経歴の特徴のひとつは、たえず傍系の学校から傍系の学校へというふうにゆかれたことでしょう。(中略)……ぼくなんかはどこにいてもたえずよそ者みたいな意識が伴ってやまないわけですが、島尾さんの場合はどうですか。」(「傍系について」『海』|1970年5月号)と述べている[48]

1980年代は、エコロジストや反文明論、疑似科学に批判的であった。情報技術については、「科学的にはそれほど難しいもの」ではないのに、富や商売と結合して「科学は単なる機能になりはて、役に立つものだけが有効だ、と考えられる風潮」に「冗談じゃねぇよ」としている[49][50]

なお、吉本は1998年の『アフリカ的段階について』の出版以来、現在に至るまで一貫して、「アフリカは文明の未発達な、そこから脱すべき一段階ではなく、むしろ現在のアフリカの中に人間のモラルや宗教や生活の原型がそろっているのではないか」という考えを持っており、「今の(2008年)世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定にいれないといけない」としている[49][51]

また2002年の『超戦争論』においては、先のことは分からないとしながらも、「21世紀の半ばくらいには、(...)「資本主義はこの先どうするんだ?」という(...)課題が、より本格的な形ででてくる」「世界の資本主義の全体的な行き詰まり、全体的な地盤沈下ということが予測される」「世界の資本主義が全体的に地盤沈下するという、その一番の兆候は何かっていえば、それこそ、G7に集う各先進資本主義国が同時多発的に不況に陥ったときである」「近代主義経済学とは違った等価交換のあり方を21世紀には模索しなければいけない」と述べている[52]
「大衆の原像」について

呉智英は、1980年代後半の著作『バカにつける薬』で吉本を批判している。呉は、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判し、また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったせいだ、としている。そして、最終的に吉本が依拠するのが、親鸞の「悪人正機」であるというのは、思想というより、吉本のみにゆるされるアクロバットにすぎない、と論じた。さらに、吉本が引用と称する「日本人は平和と水はタダだと思っている」等と発言した外国人は存在しない、と断じている。

また、岩井克人柄谷行人らは、1980年代後半、吉本が「自立思想」の根拠とする「上っつらの言語の世界からはまったく無傷な形で、しかしながら確固とした生活実感をもっている」「大衆の原像」は、1970年代初めまでの高度成長期にほぼ消えたのではなかろうか、と評した[53]

吉本は、1986年の段階で、確かに「非言語的・非映像的な存在としては」大衆はいなくなった。しかし「大衆の原像」という言葉はフーコーの、「権力関係の限界、権力関係の裏側、権力関係のはねかえりとしてあり、権力の進出から逃れようと反応するようなもの」という「平民(ブレーブ)のようなものー個人やプロレタリアートやブルジョワジーのなかにすらあるもの」の定義と類似したものとして使っている、したがって、「いまもって「大衆の原像」を根拠とすることは、相対的真理としての理念で、ずっと確固としてある」「権力に対峙する根拠」をそこにとろうとすれば、「大衆の原像」にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものは存在しない」と述べた[54]
戦中派としての「戦争体験」について

2002年出版の小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、戦後知識人の思想を、その戦争体験の内容から分析し、吉本についてはその影響の大きさから、一章を割いて詳細に論じている。小熊によると吉本は、戦中に理系の大学に進学して徴兵を逃れて生き延びた「罪悪感」と、戦中は「絶対的に『善なるもの』として戦争を鼓舞してきた文化人(吉本が戦中に信奉していた高村光太郎など)たち」が敗戦後に柔軟に意見を変えたことを若年で体験したことによる「権威に対する不信感」から、思想を構築しているとし、彼の世代である「戦中派」(三島由紀夫橋川文三ら)の特徴を総合したものであると述べている。それゆえ、「論争となると意味なく、過剰に他者を攻撃している」と、同書内でももっとも評価されない思想家として評している。また、この本についてのインタビューにおいて、フーコーと吉本は同世代だと指摘し、「青年期に国家に裏切られた世代に共通の問題意識がある」とも言っている[55]

また、柄谷行人からは、花田・吉本論争に関連し、「戦争で死んだ具体的死者を、議論のために、直接的に代理して代弁するな。」と1990年初頭[56] 批判されている。


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