吉本隆明
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1956年、初代全学連委員長の武井昭夫[注釈 7]と共同で著した『文学者の戦争責任』[注釈 8]で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、そしてそのことにより、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた[注釈 9]。また吉本は、同年には東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職した[注釈 10]

1958年には、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表[注釈 11]。共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、@「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が、矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」) Aマルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると、批判した[5]

1959年、「マチウ書試論」「転向論」等を載せた『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行した。
1960年代 - 1970年代短歌研究社『短歌研究』8月号(1960)より

1956年から1960年にかけて、花田清輝とのあいだで激しい論争が展開された。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような、花田の撤退とともに終結した。磯田光一は『吉本隆明論』(1971.審美社刊)で「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは「責任」「転向」「政治」「思想」というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じている[6]

1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派[注釈 12]に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された[7][注釈 13]。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。

60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った[注釈 14]以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている[注釈 15]1962年に黒田寛一が第6回参議院議員通常選挙全国区に出馬するも落選した。得票数は2万余りに過ぎず惨敗であった。吉本は6月に、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明を清水幾太郎香山健一森田実など数10名とともに提出した。

発行部数500部、60年安保時のブント書記長であった島成郎[注釈 16]がスポンサーを見つけ[注釈 17]始まった『試行』は、最初谷川雁村上一郎、吉本隆明三同人により編集[注釈 18]、11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ、36年間継続された[注釈 19]。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた[9]

1962年に、松田政男山口健二川仁宏ら「自立学校」を企画し、谷川雁埴谷雄高黒田寛一らとともに講師をつとめた。

吉本が主張した「自立の思想」 ―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される― は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。その代表的なものに、1963年『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)がある。そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山眞男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。

吉本自身は1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。

1962年には安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表した。1965年『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行。同年には大江健三郎江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」[注釈 20]という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」であった[注釈 21]

1968年『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行。同年10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。


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