吉本隆明
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^ 鶴見俊輔を最も高く評価し、吉本隆明にその視点からかなりの疑問を呈している。
^ 2007年の渋谷陽一とのインタビューでは、「僕があまり口に出せないような反省があるとすればそこ」とも述べている[42]
^ 例えば吉本は、湾岸戦争が起こった時に、保守派や進歩派などの、様々な「知的な」グループから出された、反戦や和平や停戦や多国籍軍への感謝などの「声明」に対して、「名辞の実体をつかまえようとして、つぎつぎ表皮をむいてゆくと何もなくなってしまうことになっている。」と、じぶん以外の責任において「理念が死んでしまう」として、「知的な」グループが集まって「象徴的な名辞」を表明することを、否定的にとらえていた[45]
^ 当時文系であれば、学徒出陣により、東大法学部助手の丸山真男さえ、徴集され、丸山は二等兵として戦争に参加した。
^ 「たえず特権的な感じから追跡されていた」という。また、吉本によれば、米沢高等工業学校の在学時、「武断派」の学生たちから大学に進学すべきか否かで議論が起き、「武断派」の学生たちは「今は国家危急の時だ」と軍隊への入営を、成績上位者で大学受験を許されていた吉本らの学生たち(化学科60人の内、一割の6名)に迫った。しかし、吉本の「大学にいって専門分野をもっと勉強して、より高い技術を身に付け、お国のために役立てようとすることが、どうして悪いことなんだ」と反論しそれが通り、迷いもあったが戦闘経験のある父のリアルな戦場の話も聞き、東京工業大学に進学したという[58][59][60]
^ 原文は以下の通り。「おれの乏しい知見の範囲でいえば、この本を読まずに現在の世界の思想を語るのは、どんな立場にしろ、読まないほうがモグリだといえるのは、現存している思想では、M・フーコーの「言葉と物」だけだと思う。」[85]
^ フェリックス・ガタリが「日本には政治的、文化的には古い伝統も残している」日本には天皇がまだ象徴として存在している。それは「非常に珍しいこと」で「いいことだ」といったことをさすと思われる。2002年になって『超・戦争論』でも再び語られている[87]
^ 他に小田切秀雄西田勝小田実が発起人。

出典^ “ブックウオッチング:新刊 『吉本隆明と「共同幻想論」』=山本哲士・著”. 毎日新聞 (2017年3月1日). 2021年2月16日閲覧。
^ 吉本隆明・吉本ばなな 『吉本隆明×吉本ばなな』 ロッキング・オン、1997年2月、p.16。
^ 『擬制の終焉』(現代思潮社、1962年)所収。
^ 吉本隆明 「吉本隆明詩集」『現代詩文庫』8 思潮社、1968年、p.113。
^ 吉本隆明 「転向論」『マチウ書試論・転向論』 講談社〈講談社文芸文庫〉、1990年10月、pp.300-304。ISBN 4-06-196101-2
^ この論争に関しては、好村 冨士彦『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』晶文社 (1986)が詳しい。当時の雰囲気を伝えている。またこの磯田光一は「吉本隆明年譜」(『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日 出版社:1996年所収)』よりの重引(用)。またこれら年譜的事実自体も川上氏作成年譜などを参考にした。
^ a b 吉本隆明 「六・一五事件と私」『重層的な非決定へ』 大和書房、1985年10月、pp.132-133。 ISBN 4-479-72022-7
^ 武井昭夫 『わたしの戦後ー運動から未来を見る:武井昭夫対話集』 スペース伽耶・星雲社、2004年7月。ISBN 4434046594[要ページ番号]
^ 『試行』創刊の経緯・発行部数に関しての検証は、『吉本隆明の時代』?秀実(作品社、2008)に寄る。[要ページ番号]
^ a b すが 2008, p. 不明.
^ 「吉本隆明 語る?沈黙から芸術まで?」。
^ “これまでの放送内容”. NHK. 2018年10月17日閲覧。
^ 吉本 2008c, p. 81,101.
^ 吉本隆明 『重層的な非決定へ』 大和書房、1985年10月。[要ページ番号]
^ 吉本 2008c, p. 185.
^ 吉本隆明 『わが「転向」』 文藝春秋、1995年2月。このタイトルは編集者がつけたものである。後書き参照。
^ 吉本 1995, p. 不明.
^ 吉本 1998, p. 211.
^ 吉本 1998, p. 69.

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