吉本隆明
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^ この時の様子を吉本は、「警官隊の棍棒に追われ、追付かれたものは力いっぱい殴打されている、塀をのりこえるほかに生命を全うして逃げる道がなかった」と述べている。不作為にのりこえた塀の中は警視庁内であり、30数人の学生と共にそこで逮捕された[7]
^ 全学連主流派を牽引した60年安保ブント(安保終結後解体)に関しては当時、一員であった西部邁の『60年安保センチメンタルジャーニー』(1986年。再発2007洋泉社)が当時の雰囲気を伝えている。島成郎についても、一章を割いて論じている。
^ 61年6月には、「退廃の誘い」と言う論考において、「自立組織が各種各様にある求心的な運動をつづけ、脈絡をつけては、核のほうこうへ繰り込み、また脈絡をルーズにして各種各様の自立的な運動を続けながら徐々に結晶していく」という組織論=運動論が述べられている。
^ 島とは、吉本が、ブント=全学連に同伴して60年安保を通過したということを超えて密接であり続けた。60年9月、安保ブントが解体状況を露呈し、島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の「ノート」(日記)(『ブント書記長島成郎を読む』所収)には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。また60年から61年にかけての島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。また2000年10月島成郎の死の際には、吉本は「『将たる器』の人」」(「沖縄タイムス」2000年10月22日朝刊、のちに『ブント書記長島成朗を読む』等に転載。)という心情あふれる追悼文を書いている。吉本はそこで、「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」と述べている。
^ 資金は、当時の金で11万円ほどだった。
^ 武井昭夫の回想によれば、当初、吉本から「『試行』発行を吉本・谷川雁・武井昭夫の3人でやらないか」という相談があったという。武井によれば断った理由は「吉本?花田論争の成り行きをみてきて、吉本さんへの友情はそれとして、かれの考えとはやがて衝突は避けられないだろうという思いから、辞退した」という[8]
^ 吉本が刺激を受け解説を書いた『日本語はどういう言語か』(講談社、1976年)の著者である三浦つとむは、1977年に病気になるまでの10年間、『試行』に毎号欠かさずに論文を発表した。 『三浦つとむ選集』1巻(勁草書房、1983年)、13頁。
^ この表題は、大江健三郎『われらの時代』からとられている。
^ 収められた論考は「転向論」「丸山真男論」。
^ 著名なものに、1987年に出版された田川建三『思想の危険について?吉本隆明がたどった軌跡』(インパクト出版)がある。
^ 吉本は、この講演で、「言語の『幹や根』は『沈黙』(自己表出)であり、コミュニケーション(指示表出)の部分は『枝葉』である」と述べた。なお、この模様は、「ETV特集」にて2008年1月4日にダイジェストが放映された[12]
^ 小沢一郎は当時自民党を飛び出、新生党を結成し、自民党を政権から降ろし、社会党を含む8党派連立の細川護煕内閣を短期間成立させていた。そのとき小沢が出版した『日本改造計画』を吉本は評価している。『わが転向』P21p24p2529p60参照。
^ 大塚は、「これはサブカルチャーの保守化とか右傾化ではなく、ナショナリズムの質的変化ではないでしょうか。すでにそれをナショナリズムと呼んでいいかどうかわからないという状況の中に、今君が代、国家の問題がある」とし、吉本はそれに応答している[23]
^ 鶴見俊輔を最も高く評価し、吉本隆明にその視点からかなりの疑問を呈している。
^ 2007年の渋谷陽一とのインタビューでは、「僕があまり口に出せないような反省があるとすればそこ」とも述べている[42]
^ 例えば吉本は、湾岸戦争が起こった時に、保守派や進歩派などの、様々な「知的な」グループから出された、反戦や和平や停戦や多国籍軍への感謝などの「声明」に対して、「名辞の実体をつかまえようとして、つぎつぎ表皮をむいてゆくと何もなくなってしまうことになっている。」と、じぶん以外の責任において「理念が死んでしまう」として、「知的な」グループが集まって「象徴的な名辞」を表明することを、否定的にとらえていた[45]
^ 当時文系であれば、学徒出陣により、東大法学部助手の丸山真男さえ、徴集され、丸山は二等兵として戦争に参加した。
^ 「たえず特権的な感じから追跡されていた」という。また、吉本によれば、米沢高等工業学校の在学時、「武断派」の学生たちから大学に進学すべきか否かで議論が起き、「武断派」の学生たちは「今は国家危急の時だ」と軍隊への入営を、成績上位者で大学受験を許されていた吉本らの学生たち(化学科60人の内、一割の6名)に迫った。しかし、吉本の「大学にいって専門分野をもっと勉強して、より高い技術を身に付け、お国のために役立てようとすることが、どうして悪いことなんだ」と反論しそれが通り、迷いもあったが戦闘経験のある父のリアルな戦場の話も聞き、東京工業大学に進学したという[58][59][60]
^ 原文は以下の通り。「おれの乏しい知見の範囲でいえば、この本を読まずに現在の世界の思想を語るのは、どんな立場にしろ、読まないほうがモグリだといえるのは、現存している思想では、M・フーコーの「言葉と物」だけだと思う。」[85]
^ フェリックス・ガタリが「日本には政治的、文化的には古い伝統も残している」日本には天皇がまだ象徴として存在している。それは「非常に珍しいこと」で「いいことだ」といったことをさすと思われる。2002年になって『超・戦争論』でも再び語られている[87]
^ 他に小田切秀雄西田勝小田実が発起人。
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