吉本隆明
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60年安保闘争
共産主義者同盟叛旗派など多数
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吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年大正13年〉11月25日 - 2012年平成24年〉3月16日)は、日本詩人[1]評論家。「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い。漫画家ハルノ宵子は長女。作家の吉本ばななは次女。

米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)卒業。東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士

第二次世界大戦後、詩人として出発し、詩集『固有時との対話』(1952年)などを発表。次いで『文学者の戦争責任』(1956年)、『転向論』(1958年)などで評論家の地位を確立した。東京下町の生活と文化を思想の下地にして、多方面の時代の問題について積極的に批評を展開。『高村光太郎』(1957年)、『共同幻想論』(1968年)、『ハイ・イメージ論』(1989年)など多数の著書があり、長きにわたって日本の論壇をリードした。
生涯
1920年代 - 1940年代

東京市月島生まれ。兄2人姉1人妹1人弟1人の6人兄弟。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工で、貸しボートのような小さな船から、一番大きいのは台湾航路で運送の航海をするような船[2] を作っていた。

1937年(12歳)東京府立化学工業学校入学。1942年(17歳)米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学。1943年から宮沢賢治高村光太郎小林秀雄横光利一保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめる。なお吉本は、第二次世界大戦=「総力戦」のもと、最大の動員対象とされ、もっとも死傷者が多く、幼少期は皇国教育が激化し、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかったいわゆる「戦中派」の世代である[注釈 2]

向島での勤労奉仕の後[注釈 3]、1945年東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人を挙げている。1947年9月に東京工業大学電気化学科卒業。

1949年、25歳のとき「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法についての諸註」[3] を『詩文化』[注釈 4]に発表。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスのいわゆる唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。
1950年代

大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われ、1949年、東京工業大学大学院特別研究生の試験に合格し、給与を受けながら東京工業大学無機化学教室に戻り稲村耕雄助教授に就く。1951年、特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手の東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職した。

1952年8月、詩集『固有時との対話』を自家版として発行。翌1953年9月、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行。『転位-』の第六篇「ちいさな群への挨拶」の一節「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」はよく知られる。この詩集は吉本自身が左翼的な詩と解説するが左翼からは評価が得られず、「荒地」から評価が得られ、吉本は54年から55年頃、荒地に接近するようになった[4]

1954年2月、「荒地新人賞」を受賞[注釈 5]し、また、同人として、鮎川信夫らが主宰する「荒地詩集」に参加する。同年6月、『現代評論』[注釈 6]創刊号と12月発行の第2号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表。「関係の絶対性」という後に有名になる言葉を ここで初めて使う。

1956年、初代全学連委員長の武井昭夫[注釈 7]と共同で著した『文学者の戦争責任』[注釈 8]で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、そしてそのことにより、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた[注釈 9]。また吉本は、同年には東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職した[注釈 10]

1958年には、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表[注釈 11]。共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、@「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が、矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」) Aマルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると、批判した[5]

1959年、「マチウ書試論」「転向論」等を載せた『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行した。
1960年代 - 1970年代短歌研究社『短歌研究』8月号(1960)より

1956年から1960年にかけて、花田清輝とのあいだで激しい論争が展開された。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような、花田の撤退とともに終結した。磯田光一は『吉本隆明論』(1971.審美社刊)で「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは「責任」「転向」「政治」「思想」というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じている[6]

1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派[注釈 12]に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された[7][注釈 13]。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。

60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った[注釈 14]以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている[注釈 15]1962年に黒田寛一が第6回参議院議員通常選挙全国区に出馬するも落選した。得票数は2万余りに過ぎず惨敗であった。吉本は6月に、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明を清水幾太郎香山健一森田実など数10名とともに提出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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