吉本隆明
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吉本は6月に、「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」という共同声明を清水幾太郎香山健一森田実など数10名とともに提出した。

発行部数500部、60年安保時のブント書記長であった島成郎[注釈 16]がスポンサーを見つけ[注釈 17]始まった『試行』は、最初谷川雁村上一郎、吉本隆明三同人により編集[注釈 18]、11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ、36年間継続された[注釈 19]。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた[9]

1962年に、松田政男山口健二川仁宏ら「自立学校」を企画し、谷川雁埴谷雄高黒田寛一らとともに講師をつとめた。

吉本が主張した「自立の思想」 ―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される― は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。その代表的なものに、1963年『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)がある。そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山眞男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。

吉本自身は1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。

1962年には安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表した。1965年『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行。同年には大江健三郎江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」[注釈 20]という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」であった[注釈 21]

1968年『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行。同年10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。また同年12月、『共同幻想論』を河出書房新社より刊行した。

吉本のいわゆる「理論的」書物、『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)『心的幻想論序説』(1971)『マス・イメージ論』(1984)といった主著への批判は刊行直後から現在に至るまでさまざまな側面からなされている[注釈 22]、核心的著作は「奪冠」されている、と論ずる評者もいる[10]
1980年代

1980年代に入ると当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I?III』を発表。サブカルチャーを評価し、忌野清志郎坂本龍一ビートたけしらを評価した。また、『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』など、代表著作が角川文庫から刊行された。「80年代消費社会」のシンボルとなったコピーライター糸井重里とは、対談等も行って親しくなり、その後も交流が続いた。(糸井は、2008年7月19日に2千人の聴衆を集めた吉本の講演会の協力者となっている[11][注釈 23]。また、パンク・バンド、スターリンの遠藤ミチロウは、吉本隆明に強い影響を受けており、彼を非常に尊敬している。

このように1980年代当時の消費社会・サブカルチャーの興隆に棹差した流れの中で1984年、女性誌『an・an』誌上に川久保玲コム・デ・ギャルソンを着て登場。埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰される。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった。この事実を踏まえなければ何もはじまらないというのが『現在』の課題の根底にある」「こういう『現在』の課題を踏まえることは、資本制自体を肯定することとも、資本主義には何も肯定的問題はないということとも全く違う」と応答している。なお同時期、吉本は埴谷雄高の「スターリン主義的左翼文化理念」と異なるだけで、自らを「左翼」であるとしている[13][14]

また、1981年に中野孝次らが始め、500人の文学者の署名を集め、二千万人の署名運動に発展した反核署名運動を批判。1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故から盛り上がった反原発運動も批判、「反核」が「反原発」に、そして「エコロジー」に収斂するのは、「ぞおっとするほど蒙昧だ」とした[15]。(#原発についても参照)

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}このころから、「思想家」として盛んに執筆活動をおこなうようになる[要出典]。
1990年代

冷戦構造崩壊後の1994年には、かつての自らの『転向論』を意識した「わが転向」を文藝春秋に発表[16]。日本における新保守主義の旗手と目されていた小沢一郎の『日本改造計画』を「穏健で妥当なことを言っている」と相対的に高く評価し、大きな驚きを与えた。そして「社会主義は善で資本主義は悪という言い方は成り立たない」「左翼から右翼になったわけではなく」「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もない」「全く違った条件を持った左翼性が必要」として自らを「新・新左翼」とし、「なにか個別の問題が起ったとき、ケースバイケースで、そのつど、態度を鮮明にすればいい」「そのつどのイエス・ノーが時代を動かす」、と述べた[注釈 24]


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