以下は『仮面ライダーBLACK』および『BLACK RX』絡みのエピソードである。
当時、プロデューサー補を務めた寺成紀によると、各回のサブタイトルのほとんどは吉川が考案したものであり、これについて吉川は「新聞のテレビ欄に載るサブタイトルひとつで視聴率が変わることがありますから、気にしていたとは思います」と述懐している[13]。
原作者の石ノ森章太郎に対し、「新しい仮面ライダーを作りますから、今までのライダーに関わったスタッフは一切入れません」と宣言している[13]。また、戦闘員との立ち回りが廃されたのも、やはり「従来のライダーバトルとは大きく変えたい」という吉川の意向と言われている。
撮影監督の松村文雄によると、当初は吉川から依頼を受けた際、松村は『あぶない刑事』を担当しており、そちらの現場が思いのほか楽しかったために断りを入れたが、「お前がやらないなら一体誰がやるんだ!」と怒鳴られたという。結果的に、仮面ライダーシリーズに関わったことのない小林義明がパイロット監督を務めるなどの魅力にも惹かれるなどし、松村は楽しく現場に携わっていた『あぶない刑事』を途中降板し、チーフ撮影監督に就任している[18]。
当時、まだ新人脚本家だった荒川稔久が提出するプロットが上原正三のものに似たものばかりだったことから、吉川は「上原正三は2人もいらないんだよ」と一喝した。結局、この後は独自の作風に意識的になったそうで、後年に上原との対談でこのエピソードに触れたり[19]、エッセイでこの件について記したり[20]するなど、荒川にとってはエポックメイキングな出来事になったようである。
長坂秀佳が脚本に参加しようと旧知の東映・齋藤頼照プロデューサーを通して吉川にアプローチしたところ、「ギャラが高過ぎるから無理」という理由で断っている。
パイロットグループの監督の小林義明や辻理が時間をかけて撮影したため、スケジュールがキツくなったときに参加した小笠原猛にはいきなり「8日間で2本撮れ」と要求した。小笠原が「それなりの作品しかできませんけど、よろしいですか」と答えたところ、吉川もそれを了承したという。小笠原の作品はそういった状況で作られた点を考慮し、いつも吉川は評価をしてくれたという[21]。
1992年に刊行された書籍『仮面ライダー大図鑑〈7〉』によれば、バンダイには『BLACK RX』の後番組の検討資料が残されており[要ページ番号]、吉川も終了後のインタビューにおいて「当初は3年続ける予定だった[22]のに、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}テレビ局がニュースを増やしたために終了して残念だ」とコメントしている[要出典]。
作品
テレビ
日本剣客伝
新・日本剣客伝
あひるヶ丘77(フジテレビ系)
ブラックチェンバー(フジテレビ系)
特命捜査室(フジテレビ系)
冠婚葬祭屋(1972年1月8日 - 4月1日、NET(現:テレビ朝日)系)
人造人間キカイダー(1972年7月8日 - 1973年5月5日、NET系)
キカイダー01(1973年5月12日 - 1974年3月30日、NET系)