敗戦後は、その衝撃から筆を執る事ができなくなってしまった。親友の菊池寛の求めでようやく書き始め、『高山右近』『大岡越前』で本格的に復活する。ただし、この頃、『宮本武蔵』の版権をめぐって講談社と六興出版(英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。
1949年4月11日、東京財務局が発表した所得番付では、作家の中では最高額の250万円を記録している[3]。
1950年(昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「新・平家物語」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回菊池寛賞(1953年)を受賞[4]。また『文藝春秋』からの強い要望で、1955年(昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なお、この頃身を隠していた辻政信に会い、逃亡資金を渡している。「新・平家物語」終了後は、「私本太平記」「新・水滸伝」を連載する。「私本太平記」は、従来逆賊といわれてきた足利尊氏の見方を改めて描く。
1960年(昭和35年)文化勲章受章。しかし通俗作家と見なされ、芸術院には入れられなかった。 「私本太平記」の連載終了間際に肺癌にかかり、翌年夏に悪性腫瘍が転移し悪化。1962年(昭和37年)9月7日、肺癌のため築地の国立がん研究センター中央病院で死去。享年70歳。法名は、崇文院殿釋仁英大居士。贈従三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時叙勲)。 疎開先だった東京都青梅市に、1977年に開設された吉川英治記念館がある(入館者減少により、公益財団法人吉川英治国民文化振興会の開設としては2019年3月20日をもって一旦閉館休止[5]、2020年9月7日に青梅市の施設「青梅市吉川英治記念館」として再開館した[6])。 なお、東京都港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。
死去
年譜多磨霊園にある吉川英治の墓
1892年(明治25年)- 神奈川県久良岐郡中村根岸(現・横浜市中区)に生誕。
1898年(明治31年)- 横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学。
1900年(明治33年)- 横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校。
1903年(明治36年)- 家運傾き小学校を中退。
1909年(明治42年)- 年齢を偽って横浜ドック船具工となる。
1910年(明治43年)- 上京。菊川町(現在の墨田区立川4丁目)のラセン釘工場の工員なる[7]。
1911年(明治44年)- 蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。また川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表。
1914年(大正3年)- 三越百貨店が各種文芸を募集した「文芸の三越」の川柳部門で応募作が一等に当選。講談倶楽部に投稿した「江の島物語」が一等に当選。
1921年(大正10年)- 旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇入選。山崎帝國堂広告文案係を経て暮れに東京毎夕新聞社入社。
1923年(大正12年)- 人気芸妓だった赤沢やすと結婚。関東大震災を機に、文学で生計を立てることを決意する。
1925年(大正14年)- 『キング』誌が創刊され「剣難女難」を連載、人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。
1926年(大正15年)- 「鳴門秘帖」を連載。大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。
1930年(昭和5年)- 現代小説「かんかん虫は唄ふ」を『週刊朝日』に連載。このころから「貝殻一平」や「松のや露八」などの維新物を発表しはじめる。
1935年(昭和10年)-「宮本武蔵」の連載を開始。
1937年(昭和12年)- 日中戦争勃発。『毎日新聞』の特派員として現地を視察。旅行中やすとの離婚成立。料理屋で働いていた池戸文子と結婚。文子16歳、英治45歳の歳の差夫婦だった。
1938年(昭和13年)- ペンの部隊として南京、漢口作戦に従軍。「三国志」の執筆開始。
1944年(昭和19年)- 西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開、疎開地が後に記念館になる。
1945年(昭和20年)- 終戦とともに一時執筆活動を休止。
1947年(昭和22年)- 執筆再開。
1948年(昭和23年)-「高山右近」を『読売新聞』に連載。