忠安は、父の吉川忠行同様、「和魂洋才」の思想をもつ人物であり、その学問は「佐久間象山と吉田松陰を兼ね併せたる人物」とも評された[3]。忠安が砲術所の門下生に講義したものを慶応3年(1867年)にまとめたのが主著『開化策論』であり、ここでは、尊王思想、海防の充実、西洋の科学・軍事技術の導入、教育改革、万国との通商、殖産興業などが説かれている[3][4][7][注釈 4]。そこでは、尊王攘夷の前提として富国強兵をはかり、一藩絶対主義を実現することがめざされていた[5]。
戦後、忠安は藩主より父子2代の功績を賞して25石を加増された[6]。 維新後の忠安は、明治元年(1868年)に秋田藩の権大参事(軍務局係、蝦夷地開拓係を兼務)、明治2年(1869年)に参政(総理大臣格)兼軍務官教授を歴任し、藩財政の再建と新兵制の確立に努めたが、明治4年3月5日(1871年4月24日)、秋田藩外債問題があきらかになった(八坂丸事件)[6][10]。これは明治2年(1869年)に支藩岩崎藩の大坂詰藩士がオランダの商社より購入した蒸気船「八坂丸」の代金を本藩が肩代わりしたことから起こったもので、かれらは通商活動に参入して藩財政を助けたいという意図によってこれを計画したが、結果としては莫大な藩債をかかえることとなって、新政府からも厳しく問題視されることとなった[9][10][注釈 5]。これには重商主義を唱える『開化策論』の影響があり、また、実際にも吉川忠安はじめ弟の沢畑頼母・高瀬美佐雄らの藩士が深くかかわっていたことから、忠安はこれを機に政治の一線から退いた[10]。 晩年、沢畑頼母とともに士族授産を図るため、牛島橋通り町にメリヤス工場を経営したが不振に終わり、さらに火災により父祖伝来の蔵書・機器類を失った[6]。失意のなか、明治17年(1884年)10月9日に死去。享年61[4]。明治41年(1908年)贈従四位[6][11]。墓所は、秋田市保戸野鉄砲町の時宗寺院、聲体寺
八坂丸事件と下野
著作
『開化策論』(沢畑頼母筆記)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 小野崎通亮(1833年?1903年)は国学者で、慶応4年(1868年)に明徳館教授となった人物。明治維新後は神祇官判事試補や秋田藩大参事、貴族院議員などをつとめた。
^ 藩主佐竹義堯は、文久3年に横手城代の戸村義效を家老に抜擢し、箱館で軍艦を購入、能代で大船10隻を建造させるなどの備えを固め、慶応4年閏4月11日には戸村を陸奥国白石(仙台領)に派遣して白石会議に参加させ、列藩同盟の盟約に調印させたが、藩論は分裂して統一できていなかった。庄内藩は会津藩とともに勤王派弾圧に辣腕をふるった佐幕派の領袖と見なされており、官軍側からは徹底的な討伐が主張されていた。奥羽鎮撫総督府の下参謀であった世良修蔵が福島で暗殺されると、総督九条道孝は盛岡に、副総督澤為量は新庄に転進し、7月1日には秋田で落ち合うこととなっていた。渡辺(2001)p.276
^ 慶応4年7月3日、久保田城では早朝より藩の去就を決するための会議がひらかれていたが、勤王論と守旧派の慎重論が対立して容易に結論がでなかった。その夜、忠安門下の砲術所の浪人が家老石塚源一郎宅をおとずれ、石塚・小野岡両家老に庄内藩討伐の決定とその先陣を強く訴えた。翌7月4日早朝、藩主義堯は、対立をしりぞけ、みずから採決して「一藩勤王」の決意を宣告した。今村(1969)pp.145-146
^ 特に蒸気機関の積極的な活用を唱えるなど、当時の久保田藩では能代の山本誠之助とともに傑出した進歩的人物であったと評価される。『秋田人名大事典 第2版』「吉川忠安」(2000)pp.193-194
^ オランダの商会との契約を仲介したのは、土佐藩の岩崎弥太郎であった。蒸気船の購入と交易資金の借用が契約の中身で、本藩は契約破棄に奔走したが、時を失ってできず、結局現金借入名義と艦の引き受けを本藩に変更し、借金は以後の商取引による利潤で返済することにした。しかし、当の八坂丸は回航中に時化に遭遇し、佐渡島沖で難破した。ここで、土佐藩仲介が裏目に出て短期間のうちに借財が膨大なものに膨れ上がってしまったのであった。『近代の秋田』(1991)pp.9-10
出典^ a b 渡辺(2001)pp.270-278
^ a b c d e 田口(1983)pp.22-24
^ a b c d e f 渡部(1981)p.237
^ a b c d e コトバンク「吉川忠安」