1647年から1648年までの第二次イングランド内戦で敗北したスコットランドはイングランド軍に占領されたが、誓約派(英語版)(クロムウェルから戦争責任があると主張された派閥)が政権から追い出され、代わりに長老派が政権を握ると、イングランド軍はスコットランドから撤退した。そして、1648年12月のプライドのパージにより長老派議員が議会を追放され、1649年1月にチャールズ1世が処刑されると、クロムウェルによるイングランドへの(政治上の)支配が確定したが、スコットランドで政権を握っていた長老派は1649年2月にチャールズ1世の息子チャールズ2世によるスコットランドおよびグレートブリテン王(King of Scotland and Great Britain)即位を宣言、イングランド王への復位も約束した。
しかし、スコットランドは1649年から1651年までの第三次イングランド内戦に敗北、イングランド共和国に併合された。併合の理由はクロムウェルが戦争責任を長老派に帰し、長老派の権力を瓦解させようと動いたためだった[14]。1652年に合同令(英語版)(Tender of Union)が、1654年4月12日に「護国卿によるイングランドおよびスコットランドの合同布告」(An Ordinance by the Protector for the Union of England and Scotland)が発され、イングランド、スコットランド及びアイルランド共和国が成立した[15]。布告が1657年6月26日に第二回護国卿議会により批准されたことで、イングランド、スコットランド、アイルランドの3議会が合同され、イングランド議会の議員に加えてスコットランドとアイルランドがそれぞれ議員30名をウェストミンスターの議会に送ることとなった。
合同により共和国内で自由貿易が成立したものの、軍を維持するために重税が課されたため、経済上の利益はほとんどもたらされなかった[16]。この合同はスコットランドでは軍事占領を伴い、イングランドでは重税を伴って行われたため、どちらにもほとんど支持されず、1660年のイングランド王政復古に伴い合同も解除された(共和国議会のスコットランド選出議員からは合同継続の請願があった)。
イングランドが1660年と1663年の二度にわたって航海条例を制定、さらにスコットランドの輸出先であるネーデルラント連邦共和国との英蘭戦争に踏み切った結果、スコットランドの経済は大きな被害を受けた。1668年1月にはイングランド・スコットランド通商委員会(Anglo-Scots Trade Commission)が設立されたが、イングランドがスコットランドから得られる利益が少なかったため譲歩に同意せず、委員会は成果を上げられなかった。チャールズ2世は1669年に合同に関する議論を再開したが、これはジェームズ1世が果たせなかった野望を果たそうとしたことと、スコットランドと敵国オランダの間の通商関係と政治上の関係を断ち切ることが目的だった[17]。このときもイングランドとスコットランドの両方で反発され、年末には交渉が中止された[18]。
1670年から1702年まで(英語版)が開会、革命の後処理について議論した。このとき、スコットランドの監督派聖職者は監督派によるスコットランド国教会支配を維持するため、イングランド・スコットランド間の合同を推進した。ウィリアム3世とメアリー2世も合同に賛成したが、イングランド議会からもスコットランドの主流派である長老派からも反対された[19]。スコットランドにおける監督制が1690年に廃止されたことで監督派聖職者は梯子を外される形になり、これが後の合同反対派の起源となった[20]。
1690年代のヨーロッパは経済衰退に苦しみ、スコットランドでも七凶年(英語版)と呼ばれる時期で、イングランドとの関係も緊迫していた[21]。1698年、スコットランド会社(英語版)は勅許状を得て、一般公募による資金調達に踏み切った後[22]、東アジアとの貿易に向けて、パナマ地峡の植民地建設計画であるダリエン計画を推進した[23][24]。スコットランド会社への投資はほぼ全てスコットランドからの資金だったが、計画は大失敗に終わり、15万ポンド以上の損失を出したため、スコットランドの通商に大きな悪影響を及ぼし[25][26]、これが合同支持への原動力の1つとなった(後述)。
アン女王即位から1707年合同法可決まで合同条約。
1702年に即位したアン女王はイングランド・スコットランド間の政治統合を目標の1つにしており、アン女王と大臣からの後援の結果、イングランド議会とスコットランド議会は1705年に合同条約の交渉に同意した[27]。
合同交渉にあたり、イングランドとスコットランドはそれぞれ代表31名を任命した[27]。スコットランドの代表は大半が合同を支持し、うち約半数が官僚で、代表的な人物にはスコットランド王璽尚書(英語版)の第2代クイーンズベリー公爵ジェイムズ・ダグラスとスコットランド大法官(英語版)の第4代フィンドレイター伯爵ジェイムズ・オグルヴィがある[28]。イングランドの代表は大蔵卿(英語版)の初代ゴドルフィン伯爵シドニー・ゴドルフィン、国璽尚書の初代クーパー男爵ウィリアム・クーパー(英語版)、そして合同を支持するホイッグ党が多数を占め、合同を支持しなかったトーリー党員で代表に任命されたのは1名だけだった[28]。
イングランド代表とスコットランド代表の交渉は1706年4月16日から7月22日までロンドンのコックピット=イン=コート(英語版)で行われた。イングランドとスコットランドにはそれぞれの目標があったが、結果としてはイングランドが「ハノーヴァー家がアン女王の後継者としてスコットランド王に即位する」という目標を、スコットランドが「イングランドの植民地との貿易権を保障する」という目標を達成した[29][27]。
1706年7月に交渉が終了し、合同条約が締結された後、条約はイングランド・スコットランド両議会で批准される必要があった。スコットランド議会の議員227名のうち、約100名がコート派(英語版)(宮廷派)であり[30]、不足した票数には第4代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムと第5代ロクスバラ伯爵ジョン・カー率いるスクアドロン・ヴォランテ(英語版)という当てがあった。合同反対派は一般的にはカントリ派(英語版)と呼ばれていたが、その内訳は第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン、第2代ベルヘイヴン=ステントン卿ジョン・ハミルトン(英語版)、アンドリュー・フレッチャー(英語版)など多くの党派の人物が含まれている。コート派はイングランドからの潤沢な資金援助を得ており、ダリエン計画で借金が重なった人物も多かった[31][30]。