司馬江漢
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日本最初の銅版画エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)の『三囲景図(みめぐりけいず)』にて、その制作に成功した。
蘭学・随筆1792年に司馬江漢が発行した『地球全図』

天文・地理学、動植物など西洋博物学、自然科学に興味を持ち、日本に紹介した。『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』などといった啓蒙書も残した。
人付き合い

晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)、自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた。どうしても外出せねばならなくなり、案の定知人と遭遇するや返事もせず逃走するもごまかしきれず、「死人は声を出さぬ」と答えた(『石亭画談』)。また、文化5年(1808年)以降は9歳加算した年を記し、世を欺いた。これは「九」という数字は、周易においては陽の極地を表し、『荘子』寓言編に「九年にして大妙なり」という言葉があることから、江漢は「九」に大悟の心境を込めて加算したと考えられる。

江漢は交友が広かった半面、自らを誇る言動が多く、他の蘭学者から町人出身の出自と絡めて「銅(あかがね)屋の手代こうまんうそ八」と批判されることもあった。上記の晩年は、こうした人間関係も影響していたとみられる[1]
代表作
錦絵

『雪こかし』中判 春信落款

『楼上縁先美人』中判 春信落款

『縁先美人』中判

『蚊遣り』中判

肉筆浮世絵

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款備考
美人納涼図絹本著色1幅86.0x32.4
神戸市立博物館款記「蕭亭藤原春重寫」/「春信」白文方印
夏月図絹本著色1幅93.5x32.6フリーア美術館明和末・安永初年頃款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印
冬月図絹本著色1幅88.1x35.0ボストン美術館款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印
縁先美人図紙本著色1幅88.1x35.0パワーズコレクション款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印
シャボン玉を吹く美人図絹本著色1幅94.7x35.6パワーズコレクション款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印
やつし荘子胡蝶の夢絹本著色1幅42.3x60.6個人款記「蕭亭春重」
引手茶屋前花魁道中絹本著色1幅91.0x37.3浮世絵太田記念美術館款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印禿二人は遊女の後ろ
引手茶屋前花魁道中絹本著色1幅99.0x38.2浮世絵太田記念美術館款記「蕭亭春重画」/「春信」白文方印禿二人は遊女の前後
縁先美人図紙本著色1幅82.8x24.1大和文華館款記「蕭亭藤原春重寫」/「春信」白文方印
縁先美人図紙本著色1幅84.7x27.4サンフランシスコ・アジア美術館明和8年(1771年)頃款記「鈴木春重寫」/「春信」白文方印[5]
月下柴門美人図絹本著色1幅84.7x27.4MOA美術館天明初期
月下柴門美人図絹本著色1幅86.533.0摘水軒記念文化振興財団無款記/「司馬峻印」白文方印・「君岳」朱文方印
月下柴門美人図絹本著色1幅80.7×25.6板橋区立美術館

洋風画

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)所有者年代落款備考
矢部富士図個人1788年(天明8年)賛「昔雪舟遊于支那而所畫富嶽景、何乎望無知者、余登於駿陽矢部補陀洛山上始観之」。文から久能寺(現在の
鉄舟寺)観音堂から実見した風景に基づく事がわかるが、画面構成は伝雪舟筆の『富士三保清見寺図』に倣っている。
寒柳水禽図絹本油彩1幅パワーズコレクション旧蔵1790年頃(寛政初期)
異国風景人物図絹本油彩双幅各114.9×55.6神戸市立博物館女図に款記「江漢司馬峻寫」と「Sibasun.」朱字サイン
男図に款記「江漢司馬峻寫」と蘭語「Eerste Zonders in Japan Ko : 」(「日本における最初のユニークな人物」の意)
異国工場図絹本著色1幅64.0×128.6神戸市立博物館
相州鎌倉七里浜図紙本油彩二曲一隻95.7×178.4神戸市立博物館寛政8年(1796年)款記「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描寫 S:a.Kookan Ao:18. / 寛政丙辰夏六月二十四日」重要文化財大田南畝・中井董堂賛
駿河湾富士遠望図絹本油彩36.2×100.9静岡県立美術館寛政8年(1796年)
江之島児淵眺望・金沢能見堂眺望図衝立絹本著色衝立表裏2面各109.3x78.8仙台市博物館寛政年間款記:前者に「江之嶋児渕眺望」後者に「金澤能見堂眺望」、それぞれに「江漢司馬峻寫」落款、「Si Kookan」朱字サイン
富岳遠望之図1面40.0x87.9京都国立博物館寛政年間末頃か款記「東都江漢司馬峻描寫」、「Si:Kookan」朱字サイン[6]
駿州薩陀山富士遠望図絹本油彩額装78.5×146.5静岡県立美術館文化元年(1804年)
江之島富士遠望図絹本淡彩1幅31.3x83.5鎌倉国宝館文化4年(1807年)款記「六十一翁江漢司馬峻寫」/「司馬」白文方印・「峻」朱文方印[7]
和田義卿像絹本著色1幅93.8x31.9個人文化9年(1812年)賛款記「江漢司馬峻寫」/「司馬」白文方印・「峻」白文方印自賛。和田義卿は備中中津の医者[8]
馬入川の富士図絹本油彩額装1面27.0x56.0摘水軒記念文化振興財団款記「江漢司馬峻」、「Si:Kookan」朱字サイン

銅版画相州鎌倉七里浜図』

『 ⇒三囲景図』(神戸市立博物館所蔵)

『三囲之景』(神戸市立博物館所蔵)

獅子のいる風景』(神戸市立博物館所蔵)・・・江漢が日本で初めての銅版画を発表する以前にその技法を探るため、試験的に制作したものといわれている。レンブラントが完成した腐食銅版画の技法を大槻玄沢の協力により翻訳し、手探りでその技法を完成した。因みにこの絵に描かれている獅子は平賀源内が私財を投げ打ってまで求めたといわれている『ヨンストン動物図譜』から模写したもの、といわれている。[9]

『広尾親父茶屋図』(神戸市立博物館所蔵)


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