彼には継嗣となりうる男子が無く、司馬昭の三男の司馬攸を猶子としていた。司馬師の死後、家系を継ぐのは司馬攸となるところだが、司馬昭の長男の司馬炎が司馬攸の同母兄である事を考慮し、後継者として司馬炎を選んだ。
諡号は、最初「武公」、のち「忠武公」。司馬昭が晋王となると諡号は「景王」に改められ、西晋の武帝司馬炎が即位すると「景皇帝」と贈号、廟号は「世宗」と定められた。
家系【西晋王朝系図】(編集)
『晋書』本紀巻1?10、列伝巻7・8・29・44・68・69による
太字は皇帝(追贈含む)、数字は即位順。
灰網掛けは八王の乱にて殺害された人物。
舞陽侯
司馬防
(追)宣帝
司馬懿 安平王
司馬孚 東武城侯
司馬馗
(追)景帝
司馬師 (追)文帝
司馬昭 汝南王
司馬亮 琅邪王
司馬? 梁王
司馬? 趙王
司馬倫 太原王
司馬? 高密王
司馬泰
斉王
司馬攸 (1)武帝
司馬炎 琅邪王
司馬覲 河間王
司馬? 東海王
司馬越 新蔡王
司馬騰 南陽王
司馬模
斉王
司馬冏 (2)恵帝
司馬衷 楚王
司馬? 淮南王
司馬允 長沙王
司馬乂 成都王
司馬穎 (3)懐帝
司馬熾 呉王
司馬晏 南陽王
司馬保
愍懐太子
司馬? (4)愍帝
司馬?
正室:夏侯徽(景懐皇后)
公主 - 甄徳の夫人
他、娘4名があった
継室:呉氏 - 呉質の娘、後に離婚
継々室:羊徽瑜(景献皇后)
猶子
斉献王 司馬攸 - 弟の司馬昭の三男
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『晋書』景帝紀によれば、呉軍の攻め疲れを見た司馬師は、文欽に精鋭を派遣して呉軍の退路を押さえさせ、?丘倹をその後詰めにまわした。退路を失うことを恐れた諸葛恪は退却しようとしたが、そこへ文欽が撃って出たため、呉軍は敗北を喫した。
^ 実際の諡は「詞」。
出典^ a b c d e 川本 2005, p. 40.
^ a b c d e 川本 2005, p. 41.
参考文献
川本芳昭『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。