司馬倫
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平南将軍孫?の子の孫弼と弟子の孫髦・孫輔・孫?は、孫秀に協力して司馬倫を補佐したので、司馬倫が即位すると4人とも将軍に任じられ、郡侯に封じられた。司馬倫一派はみな列卿や諸中郎将に任じられ、封賞を多数与えられた。即位に協力した者も全て破格の抜擢を受け、奴隷や士卒であっても爵位が与えられたという。当時、皇帝の近臣は蝉の羽になぞらえた金箔と貂の尾を冠につけていたが、司馬倫が官爵を濫発したので朝廷には貂蝉の冠が溢れかえった。人々は「貂が不足しているので、犬の尾がこれに続いている(犬とは役立たずの者の意)」と噂し合ったという。

この年は賢良・方正・直言・秀才孝廉・良将の試験が行われず、大臣や郡県から推挙された者はみな官員に登用された。郡国の計吏や太学生で16歳から20歳の者も例外なく署吏に取り立てられた。大赦が行われた日に在職していた郡太守や県令は全て封侯され、郡の小官吏は孝廉に、県の小吏は廉吏に取り立てられた。彼らに下賜する賞賜が巨額になったので国庫が不足してしまい、封侯者に渡す印綬が足りなくなってしまい、文字が書かれていない板が代わりに配られた。そのため官吏たちはむしろ賞賜を受ける事を恥と思うようになり、百姓ですら司馬倫が天寿を全うしないのを確信していたという。

孫秀は司馬倫の皇帝即位に非常な大功があったので、さらに司馬倫はこれを厚遇し、かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。司馬倫が詔を下した時は孫秀がいつも改変し、取捨を行って自ら青紙に書き写して詔書とした。朝に出された勅命が夜には変えられた事が3・4度に及び、百官の異動も流水のように頻繁に行われた。また孫秀と対立していた張林は孫秀を讒言したが、逆に孫秀の進言を受けた司馬倫は張林を三族と共に誅滅した。
三王挙兵

当時、斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬?の3名はそれぞれ強兵を擁して地方を治めており、司馬倫と孫秀はそれぞれに補佐訳を名目として朝廷の官吏を監視役に付ける一方で、司馬冏を鎮東大将軍に、司馬穎を征北大将軍に任じ、開府儀同三司の特権を与えて懐柔を図っていた。しかし、斉王司馬冏は監視役であった管襲を捕えて殺し、豫州刺史何勗・龍驤将軍董艾らと共に司馬倫打倒の兵を興した。同時に司馬穎・司馬?・常山王司馬乂・南中郎将・新野公司馬?に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎・司馬乂・司馬?はこれに呼応し、また当初は朝廷側で参戦しようとしていた司馬?も、反乱軍が優勢である事を知ると司馬冏の側に鞍替えした。

司馬倫と孫秀はこの挙兵に驚愕し、司馬冏の上書を偽造して「正体不明の賊に攻撃を受けております。我が軍は脆弱であり守ること敵わず、朝廷から援軍を派遣していただきますよう」と書き換え、これを救援するという名目で兵を動員して司馬冏らの討伐に当たらせた。司馬倫は楊珍を宣帝の廟に派遣して祈祷を行わせ、宣帝が司馬倫に感謝しており必ずや賊軍を撃ち破れると宣言させた。また、道士胡沃を太平将軍に任じ、幸運を招かせた。また、昼夜勝利を祈願し、宗族に羽衣を着用させて嵩山に登らせると、仙人王子喬のお告げを得たと称して神仙文書を作らせ、司馬倫の国運は長久に渡ると叙述させた。これにより民心を集めようとしたが、逆に困惑を招いたという。

反乱軍との戦闘は当初は優勢であったが、失態を犯して逃げ帰ってきた人物の保身のための虚報を信じた司馬倫が、連戦連勝であった張泓の率いる前線の軍に退却を命じてしまい、また司馬倫が皇帝権を代替する符節を3人の将に渡した事で混乱が生じるなど、指揮系統の乱れもあり徐々に反乱軍側に形勢が傾いていった。そして司馬穎の軍の急襲により?水にて朝廷軍が大敗を喫すると、黄河を渡河され首都洛陽にまで迫られる事となった。
廃位と死

司馬冏らの挙兵以後、百官や諸将は司馬倫と孫秀を殺害して天下に謝罪しようと思い、その機会を窺うようになった。4月7日、左衛将軍王輿と尚書・広陵公司馬?は司馬倫の排斥を目論み、700人余りの兵を率いて南掖門から宮中へ向かい、勅命を下して諸将へ宮門を押さえるよう命じ、これに三部司馬が内から応じた。こうして孫秀・許超・士猗ら司馬倫の側近達は多くがその場で斬り捨てられ、孫秀の子の孫会も捕らえられて処刑された。孫秀の家にいた司馬馥も王輿の将兵により捕らえられ、散騎省に監禁された。そして王輿は雲龍門に兵を集めて八座(六曹尚書と尚書令・尚書僕射)を殿中に入れると、司馬倫は詔を書くよう強要され「朕は孫秀によって誤りを犯し、三王を怒らせた。今、孫秀は既に誅殺されたので、太上皇を復位させ、朕は農地に帰って晩年を過ごすことにする」と宣言させた。

詔は各地に発せられ、?虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)によって各軍に停戦が命じられた。司馬倫に従っていた文武百官はみな逃走し、司馬倫の邸宅はもぬけの空となった。司馬倫は黄門に伴われて華林東門から送り出され、太子司馬?らと共に?陽里にある自宅に帰された。甲士数千人が金?城から恵帝を招き入れると、民衆は万歳を唱えた。恵帝が端門から皇宮に入り殿上に登り、群臣は頓首してこれまでの無礼を謝罪した。その後、司馬倫・司馬?らは金?城に送られ、河北からの帰途であった司馬虔も九曲にて政変を知ると、軍を棄てて私邸に帰った。9日、大赦が下され、元号は永寧と改められ、全国では5日間の宴が開かれた。司馬?らは上書して「趙王父子の凶逆は誅に伏すべきです」と進言した。百官は朝堂で議論を行い、みな司馬?の表奏に同調した。

13日、尚書袁敞が符節を持って司馬倫に死を賜り、金屑酒を飲まされて自害させられた。司馬倫は慚愧して巾で顔を覆うと「孫秀が我を誤らせた!孫秀が我を誤らせた!」と慟哭した。子の司馬?・司馬馥・司馬虔・司馬?も廷尉に引き渡され、処刑された。司馬倫によって用いられた百官は罷免され、尚書・御史・謁者・門下・中書・秘書・諸公府等の官員がほとんど空位となり、尚書台や府衛だけがごく少数留め置かれた。司馬冏らが挙兵してから司馬倫の敗亡まで60日余り、実に10万人以上が殺害されたという。

司馬倫の死を聞くと、司馬冏らの討伐に当たっていた張泓らはみな投降した。張衡・閭和・孫髦・高越は陽?から軍を撤退させ、伏胤は敗戦して洛陽に逃げ戻ったが、みな市において処刑された。蔡?は陽?から司馬冏軍に投降し、洛陽に戻った後に自殺した。王輿もまたもともとは司馬倫の一派であったが、今回の功績により罪を免れた。しかし、東?王司馬?が司馬冏を謀殺しようとすると、司馬?の謀議に加わったため殺害された。こうして司馬倫の与党は尽く罪に服したが、司馬楙劉?・陸機・顧栄のように助命されたものもいた。
人物

司馬倫は学問を修めておらず、書物を読むことが出来なかった。帝位に昇って朝権を掌握したが、彼に政治を運用する能力は無く、その実態は孫秀の傀儡に過ぎなかった。司馬倫の眼にはこぶがあり、当時の人はこれを妖異の象徴であると噂し合ったという。

子の司馬?は見識・智略が欠け、司馬馥・司馬虔は凶暴・残虐で、司馬?は愚鈍で軽薄であり、彼らは協力し合わず互いに憎しみ合っていた。また、司馬倫の側近は目先の利益だけを追う遠謀のない者ばかりであったという。
逸話

司馬倫の政権時にはその政権の乱れと短命さを暗示するかのような奇妙な事象があったという。

司馬冏らが決起した時、司馬倫は自ら太廟を祀って必勝を祈願したが、その帰りに大風が吹いて旗と車蓋が折れてしまったという。

ある時、雉鶏が飛び入ってきて太極殿の東の階段から上殿したので、人々はこれを追い払った。雉鶏は殿の西方にある大きな鐘の下に飛んで行くと、またわずかな時間で飛びさった。

ある時、司馬倫は上殿すると一匹の奇異な鳥を捕らえたが、配下に尋ねるも誰もどんな鳥か分からなかった。何日か過ぎた日の夕暮れ、白い服を着た少年が宮殿の西方に現れ、この服が鳥を殺すといった。そこで司馬倫はこの少年を捕まえて牢屋の中にいる鳥と共に閉じ込めた。翌日の朝、状況を確認しようとすると、扉は閉まったままであったが、鳥と子供はいなくなっていた。

子女【西晋王朝系図】(編集)

晋書』本紀巻1?10、列伝巻7・8・29・44・68・69による

太字は皇帝(追贈含む)、数字は即位順。

灰網掛けは八王の乱にて殺害された人物。

                舞陽侯
司馬防

                                     
                           
        (追)宣帝
司馬懿             安平王


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