号外
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まれなケースとして、同じ日に重大な事件が2件発生した際に、2つのニュースを両面で掲載する号外が発行されたことがある(2009年11月10日市川英国人女性英会話講師殺害事件の容疑者逮捕と俳優の森繁久彌死去の時)。

読売新聞』の号外は、2000年代以降、終面は『ジャパン・ニューズ』(旧:デイリー・ヨミウリ)の編集による英語の号外になっている[11]。また『朝日新聞』の号外は、終面が『ヘラルド朝日』編集による英語の号外になることが多い。

また以前は鉄道・航空・船便輸送が主(現在も離島や山間部では空輸か船便での配送が主)であり、遠隔地の現地印刷がなかったころ、朝刊の早版地域では締め切りが18 - 19時台であるため、プロ野球のナイター、あるいは国政選挙の即日開票の結果がまともに掲載できないことを配慮して、新聞社がそれら遠隔地の読者に対応するための「速報号外」を販売店にファクシミリ電送して、本編に織り込んで配達したこともあった[注釈 6]
歴史
日本における創始

洋学者の柳河春三1868年江戸で発刊(同年終刊)した『中外新聞』は日本人発行の初の本格的新聞と評されるが、5月16日7月5日)、前日の上野戦争の戦況を報じた特別版を『別段中外新聞』と題して発行した。これが日本初の号外とされる。「別段」とは本紙の別刷り付録と号外速報の意味である。

当初は、当日付けの新聞(当時は午前版=朝刊だけだった時代であるときや、現在の朝・夕刊の概念にほとんど近い「午前版・午後版」などだった)の発行後に重大なニュースがあったとき、本編に小さな紙を印刷して糊付けする「貼り付け号外」と呼ばれるものが主体だったが、1876年3月2日、『東京日日新聞』(現:毎日新聞東京本社)が日本で初めて、本編とは別配達・配布扱い(二部紙とほぼ同義。当時は「付録」扱いとも)の号外が配布されるようになった[12]

報道機関としての社会的地位を確立した新聞は、1880年代後半になると各社間で報道合戦を繰り広げるようになる。1889年2月11日大日本帝国憲法発布に際して起こった号外合戦は、その最初の大規模な例となった。『朝日新聞』は東京から大阪へ憲法全文を電信で送って号外を出し、『時事新報』は東京から熱海へ電話で記事を送稿した[13]
明治期の戦争報道合戦

日清戦争日露戦争という二つの対外戦争は特に日本国民の関心が高く、各社の号外合戦は両戦争時に最高潮に達した。戦地が日本国外であるため戦況の情報入手は限られたが、派遣した特派員従軍記者)からの電信による送稿により、取材力を整えた一部大手紙が速報では優位に立った。

日清戦争での号外合戦は速報を競う争いであったのに対し、日露戦争でのそれは発行回数の争いで、連日の号外発行となることも珍しくなく、中には1日に5回発行した社もあった[14]。『大阪毎日新聞』(現:毎日新聞)は日露戦争中の約16ヶ月間に498回の号外を発行した。日露戦争中の号外合戦により人々の間で日に何度も新聞を読む習慣ができたことは、『報知新聞』の夕刊発行(1906年10月27日から)の成功につながった[14]

戦争報道で号外が乱発される中、日清戦争中には「号外売り」という新商売が現れた。彼らは号外を出しそうな新聞社を嗅ぎつけてその前に集まり、号外が出たとたんに数百枚を買い込むや繁華街や近郊へと出向き、買い値を上回る高値で売りさばくというもので、にわかに大金を儲けた者が多かったので人力車夫や建設作業員などから号外売りに転職する者もあったという[15]
大正・昭和戦前期の概況

1924年6月、店員の休養を求める新聞販売店からの要望により、在京の夕刊発行各社は翌7月からの日曜夕刊廃止の申し合わせに調印した。販売店員の休養のために新聞休刊を要請する動きの始まりであるが、この申し合わせには「日曜日に号外を発行する場合には呼売に限り之を販売し読者には配達せざる事。この場合号外の大きさは新聞紙四ッ切大以下として社告以外の広告は之を掲載せざる事」の一項が盛り込まれた[16]

1926年12月25日、『東京日日新聞』(現:毎日新聞)は大正天皇崩御を伝える号外の中で、新しい元号は「光文」と制定される模様と報じた。しかし実際の新元号は「昭和」となったため、東日の特ダネは大誤報となった(光文事件[1]

日本では1925年に開始されたラジオ放送は、新聞界に大きな影響を及ぼした。初期には両者の関係は協力的で、ニュース番組の原稿は地元の新聞社・通信社から無償提供されていた[17]が、満州事変勃発に際して1931年9月19日に最初の臨時ニュースを放送して以降、放送は速報において常に号外に先んじたため、日本放送協会にニュースを提供していた新聞社・通信社と紛争になり、両者の対立は以後しばらく続くこととなる[18]

1936年には、二・二六事件や政変などが続き、ほぼ毎日のように号外が発行された。この頃の号外は通常版と異なりフリーの「号外屋」が有料販売していた。各新聞社が号外を発行する際には、発送部が号外屋の元締めに電話を入れ、元締めが声をかけて必要な人員を集めた。号外屋は新聞街の空き地に常時数百人は待機している状況にあり、人手を集める苦労はあまりなかった。号外屋はひとつかみ(約100毎)を20銭から30銭で仕入れると、街に繰り出して鈴や鐘を鳴らしながら売り歩いた。号外屋の有力者は「早紙」をもらえる特権があり大量に売り捌くことができたほか、顔の広いものは株屋や財閥などの大企業、官公庁などに円タクで乗りつけ200部、300部とまとめて売り払うことも行われていた。省線に乗って千葉県埼玉県神奈川県に出向いて売り捌くものもおり、新聞社、号外屋ともにそれなりの収益を上げていた[19]

1937年7月の支那事変勃発以来、各新聞は毎日曜日にも夕刊体裁の号外を発行して戦況を報じた。これは同年9月12日に日曜夕刊が復活(用紙節約のため1938年8月7日から再廃止)するまで続いた。1938年9月1日には新聞用紙供給制限令が施行され、商工省王子製紙を通じて新聞用紙の供給を絞り、各社は本紙の減ページを迫られた。この用紙統制の結果、号外は用紙難のために発行を封じられ、戦前期における号外合戦は終焉を迎えた[20]
第二次世界大戦中

1941年12月8日第二次世界大戦太平洋戦争開戦時に発行された号外は、各紙とも小さな紙面であった[1]

1944年5月には、政府の「要請」または「承認」があった場合に限り、『朝日』『毎日』『読売報知』『東京』『日本産業経済』の在京5社による「共同号外」を発行するように定められ、同年6月16日に朝日新聞社の編集による八幡空襲サイパンの戦いを報じる「共同号外」が発行された[1]。同日、朝日新聞社は「第二号外」を制作したが、政府の許可が下りずゲラ刷りのみで発行中止となった[1]
ロッキード事件

第二次世界大戦終戦後、用紙の心配がなくなった新聞界は再び大事件の折に号外合戦を繰り広げるようになったが、それが戦後最も活発に行われたのは1976年ロッキード疑獄事件の時であった。

6月22日の元丸紅専務・大久保利春逮捕時は『朝日新聞』が京浜地区と京阪神地区で発行、7月8日全日本空輸社長・若狭得治逮捕時は『毎日新聞』『読売新聞』がともに4本社で発行、7月13日の元丸紅社長・檜山廣逮捕時は『毎日』『読売』の4本社と『東京新聞』が発行。朝日新聞大阪本社の号外発行は1970年よど号ハイジャック事件以来、朝日新聞東京本社毎日新聞社の号外発行は1974年三菱重工ビル爆破事件以来、読売新聞社の号外発行は1973年ドバイ日航機ハイジャック事件以来のことであった[21]


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