史料
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厳密な史料批判をめざし、疑わしい記録を排斥し、キリスト教教会役所などに伝わる古文書を基準として研究を進めていった。こうした方法自体は誤りではないが、しばしば瑣末に捉われて全体像を見失ったり、無味乾燥な歴史に陥ってしまうことにもなった。
実証主義への反省

ホイジンガは『中世の秋』(1919年)の中で、フロワサールやシャトランらが書いた年代記を史料としている。年代記は筆者の創作が含まれ、誤りも多いとして、実証主義の歴史家からは顧みられなかったものであるが、その中から中世に生きた人々の感情が捉えられる、とした。アナール学派からは「偽文書であってもそれを作った人の意図を知ることができる」という主張が出された。また、ある文献史料が残っているのは意図的に残されたものであるともいえる[独自研究?]。例えば、土地寄進売買に関わる文書は残りやすいが、普通の商品売買に関わるものは(作られたとしても)ほとんど残ることがない。
保存方法
公文書

ヨーロッパでは都市に公文書館があり、昔の文書[注 2]が大事に保存されているが、日本では長い間公文書の保存に対する意識が薄かった。公文書館で文書の整理保存を担う専門職をアーキビストと呼ぶが、日本ではこのアーキビストの制度の法制化もなされていない。特に情報公開法が制定されてから、官庁では文書を後に残すよりも廃棄に力が注がれているようで、国立公文書館に移管される公文書が減ってきていると言われる[誰によって?]。貴重な歴史資料が失われてしまうことに危機感を持つ研究者[誰?]も多い。各種政策、法令の制定プロセスが歴史の闇に葬られることになり、後世の法学的・行政学的に法令や政策を検証する際にも支障が生じる懸念が指摘されている。
個人による保存

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年5月)

日本では平安時代朝廷正史を編纂しなくなってからは、公的な機能を担った摂関家や領主家などの「家」組織が歴史的史料の保存を担ってきた面が大きいし、また「家」はそうした公的な役割を「家業」として期待されてきた。公家日記などは、まさにこうした期待の上に執筆された公的記録の性格が強いものだったのである。これはヨーロッパ諸国の公文書館に相当する機能を個々の家が担っていたとも言えよう。しかし、明治維新以降「家」が私的機関と位置付けられ、明治維新や第二次世界大戦の敗戦などの社会変動に伴って旧家の没落が多くなるにつれ、「家」の側もそうした公共性の高い負担を担うことを避ける傾向が強くなった。

こうして歴史上の人物の子孫や、かつての有力者の個人宅などにある古文書絵画写真などを、子孫がその価値に気が付かず、あるいは経済変動などにより処分したり、紛失する場合が多くなった。また、世代交代に際して相続税を支払うためや、若い世代が老父母を地方から大都市圏に呼び寄せる際などに家屋敷を処分することを余儀なくされ、史料を処分する場合も少なくなくなっている。徳川慶朝のように曽祖父徳川慶喜が撮影した写真の史料としての価値に気が付くといった場合もあるが、こうしたケースは少ない。地域の博物館や公文書館などに寄贈することが望ましいが、プライバシーに関わることが含まれていたり、史料の受け入れ体制が整っていない場合もあり、難しいことがある。

近現代の日本は、まさに公的機関としての機能を期待された「家」による史料保存の体制が崩壊し、新たな保存体制が期待されつつある過渡期にあるとも言え、その過程で多くの史料が喪失しつつある時代とも言える[要出典]。

また、地震洪水などの自然災害によって個人所有の文書が消失していく場合もある。地震などの大規模自然災害が発生した場合、被災者にとってはまず衣食住といった生活面が最優先される。そのため、一般的に財産価値をあまり見出されない古文書に注意を払う余裕がなく、結果として地域の貴重な史料が大量に失われるという事態が発生してしまうことになる。このような事態に対して、阪神淡路大震災の教訓から災害発生時にいちはやく史料を救出・保存しようとする活動を行っている団体( ⇒歴史資料ネットワーク)もある。
分類

史料は一次史料・二次史料等に分けて捉えられる。史料批判の項目も参照。
一次史料「一次資料」も参照

一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙文書日記などを指す[2]


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