史学史
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^ バビロン第1王朝のハンムラビ王の43年の治世についてはすでにそれぞれの年がどのように記述されたかは解明されており、それに従って具体例を示せば、その第1年は「ハンムラビ、王(となった年)」、第2年は「国内に正義がおこなわれた(年)」、第3年は「バビロンにおいてナンナ神のための高壇に玉座を築いた(年)」などとされている[9]
^ しかし、古代ギリシャでは「永遠」であることが重んじられたために、個々の事実は「生滅」するために尊重されず、全体としては歴史に対する関心は低かったことが指摘されている。たとえば、アリストテレスは永遠不変な意味内容を含む「詩」を非常に高く評価する一方、「歴史」についてはそれが個別的で一時的な出来事を扱うものであるという理由で低い評価しか与えていない[10][11]
^ ヘロドトスもトゥキュディデスも同時代史に終始して遠い過去の研究にさかのぼることはなく、それは古代ギリシャ特有の循環的歴史意識によるという[12][13]
^ ヘロドトスが明示して引用している書物はヘカタイオスの書物だけである。
^ トゥキュディデスと異なり、ヘロドトスの記述には年代を明示する箇所が少ない上に挿話が多いことから、その年代的な信憑性について疑問が抱かれていた。とくに、ポリス社会での年代が示されているのはペルシア戦争終結の年だけであり、ときの執政官カリアデスの在位年が用いられている。今日では、研究によってヘロドトスの年代構造がかなり明らかになっており、その構造がしっかりとしたものであることが確認されている。
^ トゥキュディデスは著述に当たって、トロイア戦争とペルシア戦争を考察して、両方の戦争では海軍国家が陸軍国家に勝利しており、海軍国家が陸軍国家より有利であると述べる。ペロポネソス戦争ではアテナイとスパルタが戦うのであるが、海軍国であるアテナイが陸軍国であるスパルタより基本的には優位にあるとする。そのうえで、実際はアテナイが敗北する結果となったことを鑑みて、その原因を探っている。年次の記載にも気を配っており、複数の紀年を用いて表現している。たとえば、「アルゴスではクリューシスの神職在任48年目、スパルタではアイネーシアースが監督官であったとき、アテーナイではピュートドーロスが執政官の任期を終わる4ヶ月前、ポテイダイアの会戦後11ヶ月目」というような形である。また、アテナイに蔓延した疫病の病状について専門用語を駆使して詳しく記しているが、後世、同様の病気の治療の際に参考になるように記録するのであると述べている。このように、論理性に優れた洞察と、出来事に対する明確な問題意識をもとに記述する姿勢が高く評価されている[14]
^ 演説はかなり創作性が高いが、状況から論理的に考え抜かれているために、むしろ、本文の記述において十分に示されない問題背景を補っている面があり、ただ、単に物語として記されているわけではないことが指摘されている。トゥキュディデス自身も演説のほとんどは創作であり、前後の事情を考えて演説の論旨を構成していることを認めており、これは彼の歴史叙述の特徴であり、もともと意図されたところであるらしい[15]
また、事実としては、些少ながら、かなり克明に記載されている例としてはアテナイによるメロス島侵攻の記事を挙げることができる。トゥキュディデス自身もメロス島に戦略的価値はなく、政治的事件としては瑣末的な出来事であったと認めつつ、アテナイの大国主義的な政策の事例を示すためにあえてかなり詳細に記したらしい。同書においては文学的にも評価が高い箇所でもある[16][17]
^ 孔子はの史官董狐の事例を挙げて、客観的な事実をただ記すのではなく、それを勘案して毀誉褒貶することが歴史家にとって重要であると述べている。これは、歴史的事実をただありのまま記すのではなく、乱臣賊子の行動を戒める意味で積極的な歴史評価をすべきだという意味である。一方で、権力者による歴史事実の歪曲については身命を賭してまでこれに抵抗し、重大な事実は記載しなければいけないと述べた。このことは、事実の記述そのものよりも事実を記述することが現実的に及ぼす作用、実践的な役割を重視していたことを示している[18]
また、司馬遷が『史記』において、記録のあとに必ず「太史公(司馬遷自身のこと)曰く」という書き出しで始まる論評(これを「論賛」という)をつけていることは、過去の歴史を評価し、現代の教訓にして活かそうという実践的な姿勢が見出される。これは後代になっても中国の歴史学の特徴の一つであり、さらに、史記のような伝記主体の記述方式、いわゆる紀伝体に特殊な事例というわけでもない。たとえば、中国における編年体歴史書の代表、司馬光の『資治通鑑』はこれは名称がそのまま「統治に資するための、時代を通じた模範(鑑)」という意味である。中国では現実が尊重され、さらに、過去の現実としての歴史事実は現在の実践に活かそうという姿勢が強かった[19]
^ 『左伝』は歴史事実を重んじて『春秋』を解釈する傾向が強く、『公羊伝』、『穀梁伝』は哲学的な立場から『春秋』の字句などを解釈する傾向が強い[20]
^ 中国では代には歴史記録を専門とする官府である史官が置かれており、春秋時代において周の政治支配がゆるみ、各地に半独立政権が形成されても、それらで独自に史官が置かれ、記録が蓄積されていた。
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