1963年・第35回アカデミー賞では5部門でノミネートされ、そのうち撮影賞、特殊効果賞を受賞した。
後年、本作のフィルムにコンピュータで着色した「カラー版」も製作されているが[2]、軍服や徴章、勲章などの着色に誤りがある[要出典]。 第2次大戦末期の1944年6月、ヨーロッパにおいてナチスドイツはロシア東部戦線が膠着状態の中で、米英仏の連合軍がフランス北部に上陸するとの予測が強まり、大西洋沿岸に地雷や障害物などを埋めて上陸作戦に備えていた。北アフリカから戻ってきた独陸軍B軍集団団長ロンメル元帥は、イギリスに面した海岸線で地雷の敷設が400万個と聞いて、600万個に増やすよう檄を飛ばしていた。その時ロンメルは「あの水平線の向うに大軍がいる。今か今かと出撃を待っている。しかし一兵たりとも上陸はさせない。あの水際で撃滅させるのだ。上陸する最初の24時間が極めて重要で、その時は連合軍にとっても我々にとっても一番長い日となるだろう。」と語った。 独軍情報部のマイヤー大佐は、占領下のフランスにイギリスのBBC放送が送っている各メッセージの分析を行いながら、ヴェルレーヌの詩『秋の歌』が放送されたことに注目していた。前半の一節「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」[注釈 4]が数日間にわたって放送されて、次の後半の一節が放送された時は24時間以内に連合軍の上陸が始まる事を、レジスタンスから鹵獲した資料で知っていた。そして独西部軍参謀総長ブルーメントリット大将(クルト・ユルゲンス)から西部軍最高司令官ルントシュテット元帥(パウル・ハルトマン)に警戒情報を出すように要請したが、元帥はラジオから流されるヴェルレーヌの詩だけでは警戒情報は出せないと却下した。ロンメルは6月に入ってから悪天候が続きで連合軍の上陸はないと判断してベルリン行きを決めた。その時に自宅の妻に贈る誕生日のプレゼントを持って行く。 6月5日、イギリスに設けられた連合軍キャンプでは、結集した将兵が今か今かと上陸作戦の決行を待っていた。米軍第82空挺師団バンダーボルト
ストーリー
外の雨を心配そうに窓から見ながら英空軍気象部スタッグ大佐は各気象情報から天候が回復すると判断して上層部に伝えた。独軍第84軍団長マルクス大将は軍内部の議論の場で、上陸地点を英仏間が近いカレー付近と予想する向きが多いことに異論を述べて、一番距離が遠いノルマンディーの可能性が高い、そしてこういう荒天の時を狙うと予測していた、しかしアイゼンハワーには出来ないだろうと語った。だが連合軍最高会議でアイゼンハワーは最終判断として不安ながらわずかな好天の機会を逃さず決行することを告げた。ただちに待機していた部隊に次々と命令が伝達され、空挺部隊は降下の準備を初め、船上の部隊も上陸のための準備に取り掛かった。
BBC放送が『秋の歌』の後半の一節「身にしみて ひたぶるに うら悲し」[注釈 5]を流すとフランス国内のレジスタンスが動き始めた。独軍情報部のマイヤー大佐はこの詩の一節を聞いて直ちに将軍たちの場に連絡したが、第15軍司令官フォン・ザルムート将軍は警戒情報を出せと言うだけでトランプのゲームを続けていた。その夜の内に上陸を目指す各艦隊が出港し、米軍駆逐艦艦長ビーア中佐(ロッド・スタイガー)はレーダーに映る膨大な艦艇の数に史上最大の艦隊だと呟いた。
6月6日午前0:11、ノルマンディー上陸作戦は、英軍第6空挺師団ハワード少佐(リチャード・トッド)率いる部隊によるグライダー降下で始まった。