しかし中華民国は1949年に第二次国共内戦で中国共産党に敗れ、ほとんどの大陸の領土を失って台湾に撤退した。最終的に中国大陸の領土は金門島・馬祖島の2つしか維持できず、政府を中国大陸の南京からから台湾の台北へと移転した[24]。こうして中華民国は「日本から接収した台湾省の台湾島・澎湖諸島」と「もともと中国領だった福建省の金門島・馬祖島」の4つの地域で構成され、いわゆる「台湾地区(台澎金馬)」となった[25][26][27]。台湾人も中華民国の体制下で「台湾」と「中華民国」の間でアイデンティティが揺らいでいる。このような歴史から、現在の台湾は「中華民国」という国名で国際社会に存在している。
1971年、国連における中国の議席はアルバニア決議によって中国共産党の中華人民共和国へ継承されることになり、中華民国政府はこの決議に抗議して国連から脱退した。この決議によれば、中華民国の「中国を代表する資格」は中華人民共和国に継承されたが、「中華民国の領土」や「台湾の帰属」に関しては何の法的結論も出さないとされた[28][29][30]。しかし、中華人民共和国側は一つの中国方針に基づき、「アルバニア決議で中華人民共和国が中華民国の立場を継承した。さらにカイロ宣言に基づいて台湾は日本から中華民国に返還されたのだから、台湾全域は中華人民共和国の台湾省である」と主張している[31][32]。ここから発生した台湾と中国の間の論争を総じて「台湾問題」と呼ぶ。
台湾を「中華民国の本土と見なすか否か」、また「台湾独立、華独、台湾の定義、台湾地位未定論、法理独立、中国脅威論」などの論点をめぐり、台湾本土派の民主進歩党と中国大陸から渡った中国国民党は1990年代から厳しい対立を始めた。1992年の台湾民主化以降、中華民国は中国大陸での主権を取り戻すことを完全に放棄し、台湾での発展のみを専念するようになった。若い世代の台湾人はこの影響を受け、中国文化よりも親しみの深い台湾の原住民文化・客家文化・?南文化への関心が強まっている。本土派や民進党の勢力も急速に強まり、台湾では自分を中国人ではなく台湾人と認識するアイデンティティが強まっている[33][34][35][36][37][38]。
今の台湾の政局には、台湾の中華民国からの独立を目指す「泛緑連盟」と、中国大陸との統一を目指す「泛藍連盟」の二大陣営が存在している。泛緑連盟は主に民主進歩党、台湾基進、社会民主党、台湾緑党、台湾団結連盟で構成され、親米日・反中の政策を行っている[39][40][41][42][43][44]。一方、泛藍連盟は主に中国国民党、親民党、台湾民衆党で構成され、親中・反米日の政策を行っている[45][46][47][48][49][50]。どちらにも所属しない中立派としては、時代力量が主に挙げられる。 20世紀後半に台湾は急速な経済成長および工業化を経験し、現在では先進国である。1980年代および1990年代初頭、普通選挙で複数政党制民主主義に発達した。台湾はアジア四小龍の一角であり、WTOおよびAPEC加盟地域である。世界第19位の経済規模を有し[51][52]、世界経済においてハイテク産業は重要な役割を担っている。 台湾は言論の自由、報道の自由、医療[53]、公教育、経済的自由、男女平等、人間開発の観点から上位に順位付けされている[54]。米国の国際人権団体「フリーダムハウス」が発表した2022年版の「世界の自由」報告の自由度格付けで、台湾はアジア2位となった[55][56]。
ツォウ族の青年。
日本統治時代の台湾。1915年の西来庵事件後、台南刑務所から法院に台湾人逮捕者を押送する日本軍。
台北公会堂にて最後の台湾総督である安藤利吉 (左) から降伏文書を受理する陳儀 (右)。
1950年から1975年の死去まで中華民国総統であった?介石。
1960年6月、台北市にて?介石総統とともに民衆に手を振るドワイト・D・アイゼンハワー米大統領。
タイムライン 台湾↓ゼーランディア城包囲戦↓澎湖海戦↓下関条約↓日本の降伏(台湾光復) オランダ・スペイン 鄭氏政権清
日本
中華民国
中国大陸↓清が明を征服↓辛亥革命↓第二次国共内戦 明清
中華民国
中華人民共和国
│1625│1650│1675│1700│1725│1750│1775│1800│1825│1850│1875│1900│1925│1950│1975│2000
経済と人権の発展