このような名称の変遷を経て、清が台湾を統治し始めた後に、原住民の言語を語源とする台湾が使われるようになった。
歴史台南市の安平古堡。オランダ統治時代の台湾(1624年)詳細は「台湾の歴史」を参照「先史時代 (台湾)」、「オランダ統治時代の台湾」、「鄭氏政権 (台湾)」、「清朝統治時代の台湾」、および「日本統治時代の台湾」も参照
16世紀以前の台湾島は台湾原住民がが居住していたが、統一的な文化が生み出されず、南部に大肚王国という地方政権が存在するのみであった。
17世紀前半ではポルトガル・スペイン・オランダなどの西洋諸国は台湾を開拓地として建設し、キリスト教の教会や、赤?楼に代表される洋風な赤レンガの建築を多く建設した。資源豊かな台湾島は17世紀の大航海時代の影響で開発され、特にオランダを中心とした西洋文化を取り入れ、文明が発展していった。
1662年、漢人の鄭成功は台湾のオランダ植民者を追放し、台湾島を明朝再興派の拠点とし、台湾島初の政治的実体である東寧王国を設立した。1683年、漢民族国家の明に取って代わった満洲民族の清は東寧王国も征服して、台湾を清朝に併合した。1662年から19世紀まで中国大陸から多くの漢人が台湾島へ移住し続けた。これにより台湾の漢人の人口は増加し、原住民の総数を超えて台湾の過半を占める民族となった。仏教・道教・中華料理・繁体字などの中華文化もこの時期に台湾へ持ち込まれた[17]。
1895年(明治28年)、日本が日清戦争で清に勝利し、結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島が日本の領土となった。台湾は日本初の植民地として神社や和風の木造建築が建設された[18][19][20]。当時の日本は台湾島に台湾総督府を設置して台湾を本土並みに整備し、世界最先端のインフラ整備を行った。
1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の末に日本はアメリカや中華民国に降伏し、台湾は当時中国大陸を代表する政府であった中華民国国民政府の統治下に入った。中華民国は1943年にカイロ宣言で台湾(台湾島・澎湖諸島)を「日本が清から盗取した中華民国に返還すべき地」と定めた。中華民国は台湾総督府を解散させ、台湾島と澎湖諸島を合わせて「台湾省」として中華民国に編入した。これを台湾光復と呼ぶ[21][22][23]。
しかし中華民国は1949年に第二次国共内戦で中国共産党に敗れ、ほとんどの大陸の領土を失って台湾に撤退した。最終的に中国大陸の領土は金門島・馬祖島の2つしか維持できず、政府を中国大陸の南京からから台湾の台北へと移転した[24]。こうして中華民国は「日本から接収した台湾省の台湾島・澎湖諸島」と「もともと中国領だった福建省の金門島・馬祖島」の4つの地域で構成され、いわゆる「台湾地区(台澎金馬)」となった[25][26][27]。台湾人も中華民国の体制下で「台湾」と「中華民国」の間でアイデンティティが揺らいでいる。このような歴史から、現在の台湾は「中華民国」という国名で国際社会に存在している。
1971年、国連における中国の議席はアルバニア決議によって中国共産党の中華人民共和国へ継承されることになり、中華民国政府はこの決議に抗議して国連から脱退した。この決議によれば、中華民国の「中国を代表する資格」は中華人民共和国に継承されたが、「中華民国の領土」や「台湾の帰属」に関しては何の法的結論も出さないとされた[28][29][30]。しかし、中華人民共和国側は一つの中国方針に基づき、「アルバニア決議で中華人民共和国が中華民国の立場を継承した。さらにカイロ宣言に基づいて台湾は日本から中華民国に返還されたのだから、台湾全域は中華人民共和国の台湾省である」と主張している[31][32]。ここから発生した台湾と中国の間の論争を総じて「台湾問題」と呼ぶ。
台湾を「中華民国の本土と見なすか否か」、また「台湾独立、華独、台湾の定義、台湾地位未定論、法理独立、中国脅威論」などの論点をめぐり、台湾本土派の民主進歩党と中国大陸から渡った中国国民党は1990年代から厳しい対立を始めた。1992年の台湾民主化以降、中華民国は中国大陸での主権を取り戻すことを完全に放棄し、台湾での発展のみを専念するようになった。若い世代の台湾人はこの影響を受け、中国文化よりも親しみの深い台湾の原住民文化・客家文化・?南文化への関心が強まっている。本土派や民進党の勢力も急速に強まり、台湾では自分を中国人ではなく台湾人と認識するアイデンティティが強まっている[33][34][35][36][37][38]。
今の台湾の政局には、台湾の中華民国からの独立を目指す「泛緑連盟」と、中国大陸との統一を目指す「泛藍連盟」の二大陣営が存在している。泛緑連盟は主に民主進歩党、台湾基進、社会民主党、台湾緑党、台湾団結連盟で構成され、親米日・反中の政策を行っている[39][40][41][42][43][44]。一方、泛藍連盟は主に中国国民党、親民党、台湾民衆党で構成され、親中・反米日の政策を行っている[45][46][47][48][49][50]。どちらにも所属しない中立派としては、時代力量が主に挙げられる。
ツォウ族の青年。
日本統治時代の台湾。1915年の西来庵事件後、台南刑務所から法院に台湾人逮捕者を押送する日本軍。
台北公会堂にて最後の台湾総督である安藤利吉 (左) から降伏文書を受理する陳儀 (右)。