台湾
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山頂有越王射的正白、乃是石也。」「部落間互不相属、各号為王、分割土地……」、および

夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆?髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息。共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴[注 3]

とあり、『孫権伝』には、

二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛温、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬?神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還[15]

とある。これらの場合の夷州は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている。

末からまでの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を迎える。代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』『?書』『世法録』では台湾を東蕃、と呼んでいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した『?書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を?舍耶、中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる。

の太祖・朱元璋の時代になると、琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す語として使われ続けたため、両者の区別に混乱が生じた。沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ぶようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、?籠、北港、東番のような名称が与えられていた(地理そのものが知られていなかったので、これらが台湾島を指す概念であるか不明)。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」「東寧」などと呼ぶようになった。なお、「大員Tai-uan/ダイワン」の呼称が用いられるようになると、いつしか台湾近くにある琉球嶼(屏東県琉球郷)を指して「小琉球」と呼ばれるようになり、台湾と琉球嶼との間で両者の区別に混乱が生じている例もある[16]

このような名称の変遷を経て、清が台湾を統治し始めた後に、原住民の言語を語源とする台湾が使われるようになった。
歴史台南市安平古堡オランダ統治時代の台湾(1624年)詳細は「台湾の歴史」を参照「先史時代 (台湾)」、「オランダ統治時代の台湾」、「鄭氏政権 (台湾)」、「清朝統治時代の台湾」、および「日本統治時代の台湾」も参照

16世紀以前の台湾島は台湾原住民がが居住していたが、統一的な文化が生み出されず、南部に大肚王国という地方政権が存在するのみであった。

17世紀前半ではポルトガルスペインオランダなどの西洋諸国は台湾を開拓地として建設し、キリスト教の教会や、赤?楼に代表される洋風な赤レンガの建築を多く建設した。資源豊かな台湾島は17世紀の大航海時代の影響で開発され、特にオランダを中心とした西洋文化を取り入れ、文明が発展していった。

1662年漢人鄭成功は台湾のオランダ植民者を追放し、台湾島を明朝再興派の拠点とし、台湾島初の政治的実体である東寧王国を設立した。1683年、漢民族国家のに取って代わった満洲民族は東寧王国も征服して、台湾を清朝に併合した。1662年から19世紀まで中国大陸から多くの漢人が台湾島へ移住し続けた。これにより台湾の漢人の人口は増加し、原住民の総数を超えて台湾の過半を占める民族となった。仏教道教中華料理繁体字などの中華文化もこの時期に台湾へ持ち込まれた[17]

1895年明治28年)、日本日清戦争で清に勝利し、結果として下関条約が締結されると、台湾島・澎湖諸島が日本の領土となった。台湾は日本初の植民地として神社や和風の木造建築が建設された[18][19][20]。当時の日本は台湾島に台湾総督府を設置して台湾を本土並みに整備し、世界最先端のインフラ整備を行った。

1945年昭和20年)、第二次世界大戦の末に日本はアメリカや中華民国に降伏し、台湾は当時中国大陸を代表する政府であった中華民国国民政府の統治下に入った。中華民国は1943年カイロ宣言で台湾(台湾島・澎湖諸島)を「日本が清から盗取した中華民国に返還すべき地」と定めた。中華民国は台湾総督府を解散させ、台湾島と澎湖諸島を合わせて「台湾省」として中華民国に編入した。これを台湾光復と呼ぶ[21][22][23]

しかし中華民国は1949年第二次国共内戦中国共産党に敗れ、ほとんどの大陸の領土を失って台湾に撤退した。最終的に中国大陸の領土は金門島馬祖島の2つしか維持できず、政府を中国大陸の南京からから台湾の台北へと移転した[24]。こうして中華民国は「日本から接収した台湾省の台湾島・澎湖諸島」と「もともと中国領だった福建省の金門島・馬祖島」の4つの地域で構成され、いわゆる「台湾地区(台澎金馬)」となった[25][26][27]台湾人も中華民国の体制下で「台湾」と「中華民国」の間でアイデンティティが揺らいでいる。このような歴史から、現在の台湾は「中華民国」という国名で国際社会に存在している。

1971年国連における中国の議席アルバニア決議によって中国共産党中華人民共和国へ継承されることになり、中華民国政府はこの決議に抗議して国連から脱退した。この決議によれば、中華民国の「中国を代表する資格」は中華人民共和国に継承されたが、「中華民国の領土」や「台湾の帰属」に関しては何の法的結論も出さないとされた[28][29][30]。しかし、中華人民共和国側は一つの中国方針に基づき、「アルバニア決議で中華人民共和国が中華民国の立場を継承した。さらにカイロ宣言に基づいて台湾は日本から中華民国に返還されたのだから、台湾全域は中華人民共和国の台湾省である」と主張している[31][32]。ここから発生した台湾と中国の間の論争を総じて「台湾問題」と呼ぶ。

台湾を「中華民国の本土と見なすか否か」、また「台湾独立、華独、台湾の定義、台湾地位未定論法理独立中国脅威論」などの論点をめぐり、台湾本土派の民主進歩党と中国大陸から渡った中国国民党は1990年代から厳しい対立を始めた。1992年台湾民主化以降、中華民国は中国大陸での主権を取り戻すことを完全に放棄し、台湾での発展のみを専念するようになった。若い世代の台湾人はこの影響を受け、中国文化よりも親しみの深い台湾の原住民文化・客家文化・?南文化への関心が強まっている。本土派や民進党の勢力も急速に強まり、台湾では自分を中国人ではなく台湾人と認識するアイデンティティが強まっている[33][34][35][36][37][38]

今の台湾の政局には、台湾の中華民国からの独立を目指す「泛緑連盟」と、中国大陸との統一を目指す「泛藍連盟」の二大陣営が存在している。泛緑連盟は主に民主進歩党、台湾基進社会民主党台湾緑党台湾団結連盟で構成され、親米日・反中の政策を行っている[39][40][41][42][43][44]


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