台湾独立運動
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台湾青年社が入手した彭明敏らによる「台湾自救運動宣言」が『台湾青年』に掲載されるとともに、それを刻んだアルミ板が全米に配布され、台湾、米国、日本、カナダヨーロッパ南米の独立運動団体が連名でニューヨーク・タイムズ紙に政治広告として掲載した[3]。その後、アメリカが台湾独立運動の中心となった。これは日本語を常用していた学生が年月の経過により減少したことや、中華民国政府の対米影響力が減少したことが背景にある。

ちなみに、1980年代の台湾の民主化によって台湾独立運動は一気に加速するが、台湾の民主化は、主に国民党に入党した李登輝ら台湾人(許國雄の項参照)の手によって推進された。李登輝は、国民党による大陸との統一路線である「反攻大陸」のスローガンを破棄し、「二国論」を展開。大陸は中華人民共和国が有効に支配し、台湾にはこれとは別の国家である中華民国が存在すると主張した(中華民国在台湾)。李登輝は更にこの主張を前進させ、「台湾中華民国」という呼称を提唱、国民党主席を離職してからは、「台湾団結連盟」(後述)という「台湾」と名の付く初めての政党を結成させた他台湾正名運動に取り組んだ。
民主化以後の台湾独立運動

中華民国の民主化により、急進的な台湾独立運動は進歩的知識人を除いて衰退した。

象徴的なできごととして、独立派であった李登輝が中華民国総統に就任したことが中華民国の統治システムの追認となり、台湾が中華民国から独立するという目的が事実上消滅した[4]台湾独立派による街頭デモ(2007年)台湾の国連加入を訴えるスローガン(2008年)

民主進歩党は、1999年に台湾前途決議文を採択し、党綱領にある台湾独立を棚上げした。これは、2000年総統選挙に向けて、党内最大派閥の新潮流と穏健派が妥協した結果であった。同選挙で勝利し、陳水扁政権が成立するとアメリカの意向を汲み、「四つのノー、一つのない」を唱えた。そのため、民進党と従来の台湾独立派との間には、亀裂が生じた。

李登輝は、かつての国民党李登輝派である台湾本土派の一部に台湾団結連盟(台聯)を結党させ、自らはその精神的指導者となった。台聯は綱領において、台湾新憲法の制定と、国号を台湾にすることをうたっている。当初、台聯は民進党を支援する目的で結成された。しかし、中国国民党の台湾本土派を十分に取り込むことが出来ず、固定的な支持基盤を獲得できなかった。そこで、急進的な独立派路線により、民進党と独立派に近い(深緑)支持者の票を奪い合うことになった。そのため、民進党と台聯の間で、独立的な主張を競い合うという循環に陥り、中間票を取りこぼす結果も生まれている。

一方、本来の台湾独立派は、陳水扁政権において総統府国策顧問や資政(上級顧問)に就任するものも現れた。しかし、顧問職の者も含めて、陳政権とは一線を画している。むしろ、台湾正名運動を推進し、最終的には陳政権が放棄した国号改称も行うよう求めた。また、現行憲法を廃止し、台湾新憲法の制定も求めている。

その他、政治体制についても、五院体制から三権分立への変更を求める者もいる。対中国政策については、台聯や台湾独立派は、経済交流(貿易投資、人的交流)規制の継続と強化を求めている。

2008年国民党馬英九政権となり、中国に急接近する政策を取ると、反発する反政権デモが独立派によりたびたび発生するに至った。2008年8月には台北市内で主催者発表で30万人のデモが行われ、総統府前を埋め尽くした[5]2009年5月には主催者発表で台北で60万人、高雄で20万人が「(馬英九政権の)中国傾斜に反対し、台湾を守ろう」とのスローガンを掲げ、大規模な抗議活動を行った[6]

2014年には孫文の像を引き倒す事件が独立派団体により引き起こされた[7]。他にも市民を弾圧した2.28事件の日には?介石の像にペンキをかけるなどの破壊活動が増えている。こういった行動に対して報復として独立活動家の像を破壊する動きが出るなど衝突が増えている[8][9]

2016年に民進党の蔡英文政権となり、中華人民共和国との関係については、圧力に屈しない穏健な現状維持とする路線を取っている。

2020年立法委員選挙では、陳水扁や李登輝など旧来の中華民国否定派は議席を獲得することができなかった[10]
民族主義

台湾独立運動は、ホーロー人ナショナリズムの一面があり、台湾語こそが正しいとして台湾語の正当性を過剰に主張していた。台湾語の話せない人を差別する台湾独立運動の「英雄的排外主義」について、歴史家の李筱峰は、「原住民がホーロー人に対し『お前たちは数百年台湾にいるのに我々の言葉を話せないのか』と言われるかもしれない」と、民族主義による他のグループとの対立を危惧した[11]
既に台湾(中華民国)は独立国家とする考え

台湾は中華人民共和国と無関係の島国であり一つの中国を否定する天然独と呼ばれる考え方がある[12][13]。民主化後に台湾で生まれ育った若い世代によく見られる[14][15]。しかし、中華民国の一部であるかどうかは個人の捉え方による部分が大きい。台湾独立派の中には、天然独は敗北主義だとする考えもある。

特に、中華人民共和国に現状の中華民国の独立状態を認めさせる考えは、華獨(中国語版)と呼ばれる。
非現実的とする批判

台湾独立の現実性については疑問や批判もある。

中国国民党の女性市議会議員である徐巧芯(中国語版)は女性も兵役につくべきであると提案、それに対し兵役でなく代替システムで徴兵を終えた桃園市の市議会議員である王浩宇(中国語版)が「自分はそれを望まない」と発言した。ネットでは「愛国心がない、兵士になってはどうだ」と批判の声が上がった。民進党の元立法院議員林濁水(中国語版)は「国民党は徴兵に賛成しているが台湾独立を掲げる民進党は反対した、台湾を守りたいのはどちらなのか」と嘆いた。聯合新聞は「台湾独立派はご都合主義のでまかせであり、兵士にならないのならどうやって中華人民共和国と独立戦争を戦うのか。アメリカが助けてくれると思っているのか、中華民国軍も弱くはないが人民解放軍は訓練された軍隊で、一体誰が尖兵となるのだ。王のような独立派は中国共産党をコケにすることで中国人意識を持っているNanaを批判するが、現実に防衛することを考えるとパニックになり、頼りになるのか疑問である。陳水扁と馬英九の台中接近政策により中国に幻想を抱き、独立は空から降ってくるように自然に手に入ると考えるような世代が生まれた」と批判した[16]

軍事面では、「消耗品や部品の費用を軍人が自腹を切っているケースが起こっておりそれが原因の自殺も起きた。兵器の整備も行き届いておらず政治家に忖度をする将校の増加から腐敗が進行している、アメリカから最新鋭の兵器を購入するがそれはポーズでありまともに維持できない」と元軍人が批判している[17]
中国民主活動家との関係

天安門事件で亡命した王丹など、中国民主化の活動家も当初は、台湾独立に否定的だったが[18]、その後は「『台湾のために戦う』という意識が低く、叫ぶだけでは『台湾独立』は不可能。歴史上、生命の対価を支払わずに独立した民族はない」というなど発言に変化がみられる[19]

ノーベル平和賞受賞者の劉暁波は著書「統一就是奴役...劉曉波論臺灣、香港及西藏 」にて、大一統と中国民主化は両立できず、台湾、香港チベットを独立させるべき主張した[20]
台湾独立運動を展開した代表的な人物
香港を拠点として活動した人物

廖文奎
(中国語版)(1905年 - 1952年) : 第二次世界大戦後の早期に台湾民族主義思想の理論を築き上げた運動家。1950年代に「台湾再解放連盟」が発表した『福爾摩沙發言(Formosa Speaks)』の著者。

廖文毅 : 第二次大戦後の最初期に活動した運動家。1948年に香港で「台湾再解放連盟」を成立させ、後に日本へ渡る。

謝雪紅 : 「台湾再解放連盟」の創始者の一員。二二八事件後に台湾から逃れてきた。

日本を拠点として活動した人物

廖文毅 :
第二次世界大戦後の最初期に活動した運動家。1956年東京台湾共和国臨時政府を樹立させ、初代大統領に就任。


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