台湾独立運動
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

現在の台湾独立派の最も有力な理論は2つあり、「台湾は日本が敗戦によって台湾を放棄した時点で国際法上の独立を果たしており(中華民国が台湾を領有するという国際条約は存在しない)、戦後の台湾には台湾共和国と亡命中華民国が並存しているとしている」という見解と、「既に台湾は独立国家であり中華民国である」というものである[2]。そして、その上で中華民国の政治体制を変革することを目標としている。この運動は、泛緑連盟によって支持されているが、一方で中華民国による中国統一を志す泛藍連盟による強い反発を受けている。

台湾政府が中華民国体制からの正式な独立宣言をした場合、「一つの中国」を主張してきた中華人民共和国は台湾を回収する根拠を失うため、同国は「武力解放」を明言して台湾への圧力を続けている。アメリカや日本は、大規模な戦乱を恐れ「台湾独立」に慎重な立場を取っているが、これらの国々の政府や民間に親台湾派が存在する。

台湾独立運動を支持者が使う様々な旗
@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

通称「台湾旗」。最も使われている台湾独立の旗で、民主進歩党の印でもある。台湾本土以外、世界台湾人大会(中国語版)・日本の台湾支援者協会・日本李登輝友の会などでも使用している。

台湾独立派が1990年代に台湾共和国の国旗として提案した「クローバー旗」。中央の紋章は日本の十六菊花紋を真似た八菊花紋である。しかしこの国旗は菊花紋の重数が日本より半分少なく、日本の臣下に見えるという非難を受けつつ、最終的に廃案となった。

908台湾国運動の旗。

台の文字の「翠青旗」。中央の△と▽の紋様は日本統治時代の台湾總督府の紋章に由来であり、台湾の「台」の文字の変形でもある。

中華民国による統治以前の台湾独立運動

この時代の台湾独立運動についてまず特筆すべきことは、日清戦争後の下関条約で日本が清国から台湾を割譲された際に、台湾が「台湾民主国」として一応の独立を宣言していることである(黄昭堂:『台湾民主国の研究―台湾独立運動史の一断章』東京大学出版会1970年)。しかし、この政権は大陸から派遣されていた清朝の官僚や清国軍、清国の科挙試験に合格したごく一部の台湾人特権階級を中心としたものであったため、短期間で解体、崩壊した。日本軍の台湾上陸の報を聞いた清朝の官僚は直ちに外国船で大陸へ逃亡し、清国兵は台北で台湾人への略奪を始めている。台湾人の有産階級は、独立どころか日本軍に救援を依頼し、進軍の手引きまでしている。

1920年代日本共産党の指導の下にあった台湾共産党は、コミンテルンの指示を受け、「日本帝国主義」からの独立を目指したが、大きな広がりを持つには至らなかった(この時期の台湾独立運動の代表人物としては、謝雪紅などが上げられる)。また、中国共産党は、台湾共産党の主張する社会主義的理念に基づく台湾独立を認めず、彼らの多くを追放したため、台湾共産党の主導による独立運動も終焉を迎えた。
中国国民党独裁体制下の台湾独立運動

1970年台湾独立建国連盟設立後を境に前期・後期と分けられる。
前期

初期の独立運動は、日本へ留学した留学生が活動の中心となった。これは日本統治時代の影響で日本語を習得していた人間が多く、台湾から日本の大学への留学が比較的容易だった背景がある。1960年には、台湾ではできない自由な論壇として王育徳らにより雑誌『台湾青年』が創刊された。

中華民国国外における本格的な独立運動の先駆けとしては、廖文毅による日本での台湾共和国臨時政府樹立が挙げられる。臨時政府は財政問題や国民政府の圧力などによっていきづまり、廖文毅の「投降」後に瓦解した。
後期

他にも、日本では許世楷や黄昭堂、金美齢および夫の周英明、日本人では台湾独立を主張した雑誌『台湾青年』の編集長を永年務めた宗像隆幸らが中心に活動し、同誌をはじめとする諸著作の出版や中華民国政府による人権抑圧、中華民国政府に好意的な日本政府に対する抗議デモ、同じく中華民国政府に好意的な自由民主党の政治家の集会での催涙ガス散布、また当時台湾で軟禁状態だった彭明敏亡命の支援など積極的に台湾独立運動が行われた。この時期に出版された諸著作は台湾独立運動の法学・歴史学上の基礎となっている。

こうした日本の活動参加者やアメリカへの留学生などにより、台湾独立建国連盟が設立された。アメリカでは1960年代に各地で台湾人留学生の活動が活発になり、陳以徳率いるフィラデルフィアのUnited Formosans for Independence (UFI)が全米の組織を吸収し、1966年にUnited Formosans in America for Independence (UFAI)が設立された[3]台湾青年社が入手した彭明敏らによる「台湾自救運動宣言」が『台湾青年』に掲載されるとともに、それを刻んだアルミ板が全米に配布され、台湾、米国、日本、カナダヨーロッパ南米の独立運動団体が連名でニューヨーク・タイムズ紙に政治広告として掲載した[3]。その後、アメリカが台湾独立運動の中心となった。これは日本語を常用していた学生が年月の経過により減少したことや、中華民国政府の対米影響力が減少したことが背景にある。

ちなみに、1980年代の台湾の民主化によって台湾独立運動は一気に加速するが、台湾の民主化は、主に国民党に入党した李登輝ら台湾人(許國雄の項参照)の手によって推進された。李登輝は、国民党による大陸との統一路線である「反攻大陸」のスローガンを破棄し、「二国論」を展開。大陸は中華人民共和国が有効に支配し、台湾にはこれとは別の国家である中華民国が存在すると主張した(中華民国在台湾)。李登輝は更にこの主張を前進させ、「台湾中華民国」という呼称を提唱、国民党主席を離職してからは、「台湾団結連盟」(後述)という「台湾」と名の付く初めての政党を結成させた他台湾正名運動に取り組んだ。
民主化以後の台湾独立運動

中華民国の民主化により、急進的な台湾独立運動は進歩的知識人を除いて衰退した。

象徴的なできごととして、独立派であった李登輝が中華民国総統に就任したことが中華民国の統治システムの追認となり、台湾が中華民国から独立するという目的が事実上消滅した[4]台湾独立派による街頭デモ(2007年)台湾の国連加入を訴えるスローガン(2008年)

民主進歩党は、1999年に台湾前途決議文を採択し、党綱領にある台湾独立を棚上げした。これは、2000年総統選挙に向けて、党内最大派閥の新潮流と穏健派が妥協した結果であった。同選挙で勝利し、陳水扁政権が成立するとアメリカの意向を汲み、「四つのノー、一つのない」を唱えた。そのため、民進党と従来の台湾独立派との間には、亀裂が生じた。

李登輝は、かつての国民党李登輝派である台湾本土派の一部に台湾団結連盟(台聯)を結党させ、自らはその精神的指導者となった。台聯は綱領において、台湾新憲法の制定と、国号を台湾にすることをうたっている。当初、台聯は民進党を支援する目的で結成された。しかし、中国国民党の台湾本土派を十分に取り込むことが出来ず、固定的な支持基盤を獲得できなかった。そこで、急進的な独立派路線により、民進党と独立派に近い(深緑)支持者の票を奪い合うことになった。そのため、民進党と台聯の間で、独立的な主張を競い合うという循環に陥り、中間票を取りこぼす結果も生まれている。

一方、本来の台湾独立派は、陳水扁政権において総統府国策顧問や資政(上級顧問)に就任するものも現れた。しかし、顧問職の者も含めて、陳政権とは一線を画している。むしろ、台湾正名運動を推進し、最終的には陳政権が放棄した国号改称も行うよう求めた。また、現行憲法を廃止し、台湾新憲法の制定も求めている。

その他、政治体制についても、五院体制から三権分立への変更を求める者もいる。対中国政策については、台聯や台湾独立派は、経済交流(貿易投資、人的交流)規制の継続と強化を求めている。

2008年国民党馬英九政権となり、中国に急接近する政策を取ると、反発する反政権デモが独立派によりたびたび発生するに至った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef