台湾民報
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1932年(昭和7年)4月15日、総督府より日刊紙としての発行が認可され、台湾での世論形成に大きな影響を与える言論機関として成長した[4]
台湾人民族運動の機関紙としての『台湾民報』

『台湾民報』および『台湾新民報』は1920年代から30年代にかけ、台湾での各種社会運動に大きな影響を与えた[1]。まず、1921年(大正11年)からはじまった台湾独自の議会の設置を求める台湾議会設置請願運動や、新しい民族意識をもった台湾人知識人の民族運動団体である「台湾文化協会」による文化啓蒙活動など、1920年代前半の台湾人による抗日民族運動の機関誌の役割を果たした[1]。治警事件や二林事件の報道により台湾人に大きな影響力を与えた[1]。東京で発行し、台湾に持ち込むという不利な条件の下、最盛期には1万部を突破したと豪語した[1]
台湾人自身の言語改革運動と『台湾民報』

上述の「台湾文化協会」の結成や、「台湾議会設置請願運動」などの1920年代の活発な動きの中で、台湾人自身による言語改革運動が行われるようになった[6]。いわゆる「中国白話文」普及運動である。中国白話文とは、中国で五・四運動前から急速に普及した、中国の新しい国語を記述する口語文体である[6]。学習に時間がかかる文語文にかえ、新しい口語文を台湾でも普及させ、民衆啓蒙に役立てようとする運動が台湾人知識人により提唱された[6]。本『台湾民報』が中国白話文を採用したことで、この運動が結実した[6]。さらに本誌を舞台に文学創作なども開始された[6]。同時代の中国の「文学革命」にならった、いわゆる「台湾新文学」運動である[7]。これは同時期に展開していた中国の近代国家建設の文化的成果である中国白話文を普及させることにより、日本の同化政策に対抗し、また同時代の中国の文化潮流に合流していこうとする動きであった[6]
戦時体制下の『台湾新民報』とその後

日中戦争を契機とする皇民化政策による言論統制が強められる中、『台湾新民報』に対する規制も次第に強いものとなってきた。1937年(昭和12年)6月1日、遂に中国語版が停刊となり、1941年(昭和16年)2月には常務董事総経理である羅万陣及び主筆兼編輯局長の林呈祿により、『台湾新民報』は『興南新聞』と改称され、施政批判色を薄めた言論内容での発行となった。戦時統制下の1944年(昭和19年)4月、総督府主導により『興南新聞』は、他の台湾主要新聞5紙である『台湾日日新報』、『台湾新聞』 、『台湾日報』、『東台湾新聞』、『高雄新報』と統合され、『台湾新報』となった[8]。太平洋戦争での日本の敗戦後は『台湾新報』は国民政府により接収され、『台湾新生報』と改称された[4]
脚注^ a b c d e f g 若林(2001年a)272ページ
^ a b 呉(2010年)178ページ
^ 呉(2010年)196ページ
^ a b c 若林(2001年a)273ページ
^ 呉(2010年)200ページ
^ a b c d e f 若林(2005年)24ページ
^ 若林(2001年b)47ページ
^ 藤井(1999年)196ページ

参考文献

若林正丈「矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』精読」岩波書店(2001年a)

村田雄二郎、C・ラマール編『漢字圏の近代- 言葉と国家』(2005年)所収、若林正丈「1台湾の近代化と二つの『国語』」

若林正丈「台湾?変容し躊躇するアイデンティティ」ちくま新書(2001年b)

呉密察監修、日本語版翻訳横澤泰夫「台湾史小事典改定増補版」中国書店(2010年)

藤井省三「現代中国文化探検-四つの都市の物語-」岩波新書(1999年)

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