上述の「台湾文化協会」の結成や、「台湾議会設置請願運動」などの1920年代の活発な動きの中で、台湾人自身による言語改革運動が行われるようになった[6]。いわゆる「中国白話文」普及運動である。中国白話文とは、中国で五・四運動前から急速に普及した、中国の新しい国語を記述する口語文体である[6]。学習に時間がかかる文語文にかえ、新しい口語文を台湾でも普及させ、民衆啓蒙に役立てようとする運動が台湾人知識人により提唱された[6]。本『台湾民報』が中国白話文を採用したことで、この運動が結実した[6]。さらに本誌を舞台に文学創作なども開始された[6]。同時代の中国の「文学革命」にならった、いわゆる「台湾新文学」運動である[7]。これは同時期に展開していた中国の近代国家建設の文化的成果である中国白話文を普及させることにより、日本の同化政策に対抗し、また同時代の中国の文化潮流に合流していこうとする動きであった[6]。 日中戦争を契機とする皇民化政策による言論統制が強められる中、『台湾新民報』に対する規制も次第に強いものとなってきた。1937年(昭和12年)6月1日、遂に中国語版が停刊となり、1941年(昭和16年)2月には常務董事兼総経理である羅万陣
戦時体制下の『台湾新民報』とその後