三大新聞の発行部数の変化年台湾日日新報台湾新聞台南新報
1924年18,9709,96115,026
1935年49,95230,00025,386
1936年53,51751,88036,761
1937年58,04031,00037,744
1938年59,20131,10038,065
1939年68,39212,34840,185
1901年(明治34年)11月より、8面のうち2ページを中国語版とし、1905年(明治38年)7月からは、『漢文台湾日日新報』の名で4ページの独立した新聞を発行した。しかし、1911年(明治44年)には財政困難の理由により、日本語版の中に2ページの中国語版を付す姿に戻された。この中国語版も1937年(昭和12年)4月には、総督府の「皇民化」政策により廃止されることになった[1]。 太平洋戦争の激化に伴う戦時報道統制により、1944年4月1日に総督府がこの当時の他の主要日刊紙である『興南新聞[注釈 1]』(本社・台北)、『台湾新聞』(同・台中)、『台湾日報[注釈 2]』(同・台南)、『高雄新報』(同・高雄)、『東台湾新聞』(同・花蓮港)の5紙と統合させ、『台湾新報』(新)とした[3]。この『台湾新報』(新)は、戦時下の厳しい紙事情にかかわらず、発行部数16万7000部であった[3]。太平洋戦争での日本の敗戦後は『台湾新報』(新)は国民政府により接収され、『台湾新生報
『台湾日日新報』のその後
台湾日日新報
台湾日日新報
台湾日日新報
台湾日日新報
関連項目
目黒区立図書館 - 社長だった守屋善兵衛(1866年 - 1930年)の邸宅跡が目黒区に寄贈され、守屋記念館を開設。1952年には守屋図書館が開館した。区立図書館には善兵衛が残した書籍や台湾日日新報が所蔵されている[5]。
脚注
注釈^ 『台湾民報』の後身。
^ 1937年『台南新報』から改題されたもの。前述『台湾日報』とは別。
出典^ a b c 呉(2010年)150ページ
^ a b 李(2014年)3ページ
^ a b 藤井(1999年)196ページ
^ 若林(2001年)273ページ
^ “ ⇒守屋善兵衛氏コレクション”. 目黒区立図書館. 2018年8月19日閲覧。
参考文献
呉密察監修、日本語版翻訳横澤泰夫「台湾史小事典改定増補版」中国書店(2010年)150ページ
李佩蓉「日本統治時代初期の台湾における漢字新聞の研究『漢文台湾日日新報』(1905)の創刊経緯とその背景を中心に」日本マス・コミュニケーション・2014年度春季研究発表会・研究発表論文(2014年)
藤井省三「現代中国文化探検-四つの都市の物語-」岩波新書(1999年)
若林正丈「矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』精読」岩波書店(2001年)
外部リンク
⇒1898-1944. 『台灣日日新報』簡介
⇒神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ - 新聞記事文庫 :台湾日日新報 1914-1942