台湾問題
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しかし、党内の台湾本土派の反対により大会開催前に断念せざるを得なかった[7]。また、中国側も同年3月に全人代報道官が反対を表明している[8]。その後、しばらくの間は連戦は国家連合を唱え続けたが、後には自らの提案の存在自体を否認する発言を行っている。
3つの選択肢(馬英九)

2006年2月14日、中国国民党は台湾本土派の日刊紙『自由時報』に意見公告を掲載した。そこで馬英九同党主席は、統一、独立、現状維持の3つの選択肢を上げ、統一が最終的目標であるが、現在は現状維持が最も現実的な選択肢だと述べた。これは、陳水扁総統が国家統一綱領と国家統一委員会の廃止に言及したことを牽制するものであった。ただし、この意見公告に対しては、最終的な統一が馬英九の理想である事を強調する見方と、中国国民党が台湾独立も台湾有権者の選択肢の一つとして明言したことを重視する見方がある。なお、2004年に、中国国民党籍の王金平立法院院長も、「台湾独立も選択肢の一つ」と述べたことがある。
中国共産党・中華人民共和国政府

中国共産党の台湾問題に対する見解は、その時代の政治情勢によって、大きく変化している。
中華人民共和国建国以前

1949年の建国以前の中国共産党は、台湾を中国の固有領土と認識しておらず、その独立を支持していた。毛沢東の発言によれば、ソビエト連邦をモデルとした連邦国家を目指し、主要な少数民族には自治権を付与し、自治共和国を設置する。一方、以前の朝貢国である朝鮮と領土だった台湾については、独立を望むなら援助を与える方針であった[9]。詳細は「中華連邦主義」を参照
中華人民共和国建国から1970年代末まで

中華人民共和国政府は、自国が1949年崩壊・消滅した中華民国継承国家であり、「中国を代表する正統な国家」としての立場を中華民国から引き継いだ立場にあるとしており、そこから1945年に中華民国の領土に編入された台湾の最終帰属も、中華民国の立場を継承した中華人民共和国に継承されると主張してきた。そのため、中華人民共和国は、名目的に台湾省を設置する事で自己の主張の正当化を図り、併せて?介石によって台湾へ移転された現在の中華民国政府のことを、「崩壊した中華民国政府(国民政府)の一部勢力が台湾を不法占領して樹立した非正統的な政府」として、その存在の正統性を否定してきた。
「台湾同胞に告げる書」の発表および改革開放期以降

この節の加筆が望まれています。

1979年1月1日、全国人民代表大会常務委員会が「台湾同胞に告げる書(中国語版)」を発表。台湾政策の原則を武力解放から平和統一へ転換した。

1995年1月30日、江沢民中国共産党総書記が、台湾問題の解決方式について8項目の提案を発表した(江八点)。

2008年12月31日、「台湾同胞に告げる書」発表30周年座談会で、胡錦涛中国共産党総書記が談話を発表。以下の6項目を提案した[注釈 3]
一つの中国という原則を守り、政治的相互信頼を強化する

経済協力の推進、共同発展の促進

中華文化を発揚し、精神的な絆を強化する

人的往来を強め、各界の交流の拡大

国家主権を維持し、対外関係での協調

敵視をなくし、和平協定に調印すること

余元洲の建議案

2004年、中国が統一法を制定するとの噂が流れた。後に、2004年12月から翌2005年3月にかけ、中国の全国人民代表大会反分裂国家法として立法作業に入る。この反国家分裂法に先んじて、2002年に余元洲・江漢大学政法学院副教授が「中華人民共和国国家統一促進法(学者建議案)」[10]を発表していた[11]。反国家分裂法との関連は定かではないが、全人代や国務院台湾事務弁公室にも送付し、また何人かの全人代の代表や政府関係者が彼の意見を聴取したとも言われる[12]

余の統一促進法では、中華民国の実効支配地域を「中華人民共和国台湾特別政治地域」とし、中華人民共和国の実効支配地域を「中華民国大陸特別政治地域」とすることを提案している。二つの国が互いの全領土に対する主権を共有する点では、国際法上荒唐無稽である。しかし、中華民国の存在を公的に認め、当事者間においては双方を外国と看做さない点において、分断国家理論やそれに基づく本来の「特殊な国と国の関係」(旧東西モデル)に近い発想と言い得る。
イギリス

ウィンストン・チャーチル首相は1955年のイギリス議会での答弁で、「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」と述べている[13]
カイロ宣言と国連第2758号決議文問題

2004年に中国の温家宝総理が「中国が台湾の主権を有していることは『カイロ宣言』できわめて明確に示されている」と発言した。

これに対して陳水扁は、2008年に英国紙『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューに対して次のように答えた[14]

「1943年に?介石、チャーチル、ルーズベルトの3ヶ国の首脳が中国は台湾の主権を確かに有していると決定したと、多くの人々が信じて」きたが、1943年12月1日の『カイロ宣言』は日付も署名もなく、事後による追認もなく、授権もないとし、「これはそもそもコミュニケ(公的な共同声明)ではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない」と指摘したうえで、「1955年2月1日、チャーチル首相は国会質問で、『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できないと答えたように、当時3人にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかった」と述べ、中国がカイロ宣言を根拠に領土を主張するのは成立しないとした[13]

また、「台湾の国家主権は台湾国民に属している」と強調し、さらに、多くの人が「『カイロ宣言』にはそもそも中国が台湾の主権を有することが書かれたわけではないというこの事実を知らないのは、過去の教育が杜撰であり、歴史が改竄されていたからだ。だからこそ、中国は自己に有利なためこれを引用し、国民党は台湾を統治する際の法的統一の基礎としたのだ」とした[13]

また、陳水扁は1971年の国際連合総会2758号決議文にはそもそも『台湾』が触れられておらず、『中国』代表権問題のみが解決しただけであり、中華人民共和国が台湾2300万の人々を代表してよいとは言っていないのであり、パン・ギムン国連事務総長や中国はこれを拡大解釈しているとして批判した[13]

日本政府は「第二次世界大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持たない」と表明している[15][16]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ この内戦には公式な終戦日がない。しかし、中国大陸に近く中国国民党にとって反攻の為の最後の砦であった海南島が陥落した後は戦争が終結したと、歴史家達は広く合意している[1]。なお、両国間の戦闘行為は1979年1月1日金門砲戦終了まで続いた。
^ 総統国民大会立法院監察院などの規定
^ このほか、「両岸は国家が統一されていない特殊な状況の下での政治関係について、実務的な検討を行うべきだ」「台湾海峡情勢の安定や安全への懸念を緩和させるため、両岸は適時に軍事問題について交流し、相互信頼システムの確立について討議を行うべきだ」「台湾独立分裂活動に反対することは、両岸関係の平和的発展を推進させる必要な条件であり、両岸同胞の共通の任務でもある」などと主張した。

出典^ Westad, Odd (2003). Decisive Encounters: The Chinese Civil War, 1946-1950. Stanford University Press. pp. 305. https://books.google.co.jp/books?id=JBCOecRg5nEC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22last%20major%20GMD%20stronghold%22&f=false 
^ 台北二二八紀念館資料[出典無効]
^ [1]
^ “蒙古地方”. 重編國語辭典 (中華民国教育部). ⇒オリジナルの2013年5月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130523131132/http://dict.revised.moe.edu.tw/cgi-bin/newDict/dict.sh?idx=dict.idx&cond=%BBX%A5j%A6a%A4%E8&pieceLen=100&fld=1&cat=&imgFont=1 
^ “有關外蒙古是否為中華民國領土問題?明新聞參考資料”. 大陸委員会. (2012年5月21日). オリジナルの2021年6月15日時点におけるアーカイブ。


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