台湾問題
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中華人民共和国が国際連合安全保障理事会常任理事国であり、拒否権を有していることである。しかし、中華人民共和国が現実に拒否権を行使した例は2006年までは3回しかなく、少なかった。中華人民共和国を承認していない国が安保理で扱う議題の当事国となった場合、有利な案件は否決され、不利な案件は可決されるリスクを負う。具体例はマケドニア共和国(現在の北マケドニア共和国)である。同国は一度「中華民国」を承認したものの、国連PKOの派遣に関する決議を中華人民共和国に妨害されることを恐れて撤回した。

「中華民国」を承認する国は台湾の潤沢な経済力を背景に、経済援助を目当てにしている国が多い(またこれは中華人民共和国を承認する国も同様である)。こうした国々は、アフリカ中央アメリカ南太平洋の島々を中心に存在する。いずれも小国であり、国連などの国際機関などで「中華民国」の参加や加盟に協力はするが、それを実現させるほどの政治力を持っていない。少数でも承認してくれる国家があることは、主権国家としての存続に必要不可欠だと歴代台湾の「中華民国」政権は認識している。

台湾において民進党出身の陳水扁政権も同様である。陳水扁は総統就任直後、「四不一没有」(4つの拒否と1つのない)を表明し、独立路線の棚上げと対中関係の改善を目指した。ところが、2002年8月に陳が民進党主席に就任した日、中華人民共和国政府はナウルに承認切換を行わせた。これに反発した陳は「一辺一国」発言をした。中華人民共和国も経済援助を用い、「中華民国」を承認する国々を切り崩し続けた。そのため、陳政権にとっては「中華民国」を承認する国を確保することが緊急の課題となり、「一辺一国」発言に沿うはずの二重承認の実現まで手が回らなくなった。そのため、台湾側も政府承認の切替のみに注力する結果となった。

台湾の国際参加と名称問題

中華民国が国際機構や主要国に認められなくなったため、台湾の国際参加には様々な障害が伴っている。そのため、実際には領域としての参加を余儀なくされている。その場合、台湾の呼称が政治問題化する場合も多い。国際社会に於ける主な台湾の名称には、以下がある。

チャイニーズタイペイ(Chinese Taipei 中華台北):
世界貿易機関 (WTO)、アジア太平洋経済協力 (APEC)、世界保健機関(WHO)

タイペイ・チャイナ(Taipei,China 中国台北):アジア開発銀行 (Hong Kong, Chinaとスペース表記なしで区別する)

IOCやFIFAなどスポーツの国際機構には、国家承認問題を棚上げしたまま、チャイニーズタイペイという地域として参加している。

また中華人民共和国を承認しない場合では北京当局、中華民国を承認しない場合は台湾当局という呼称を使用する場合がある。
台湾問題に関する各勢力の意見・法的扱い
中華民国

台湾移転後も中華民国政府は、「中国を代表する正統な国家」としての立場を継承する立場にあることを主張した。国民政府が台湾地域のみを統治することを内戦中の一時的な措置とした上で、台湾を含めた全中国の領有権を主張してきた。また、自由地区(台湾を指す)のみによる選挙の実施は全中国の代表性を損なうと主張し、民主化運動を法理独立と見做し、弾圧した。「中国国民党による一党独裁時代の台湾」も参照

?経国政権は戒厳令を解除し、中華民国が中国大陸を実効支配していない事や中華人民共和国政府への対応を始めた。国家統一委員会の設置、それによる国家統一綱領の制定、さらに中華民国憲法の改正[注釈 2]により、「自由地区」(台湾)における国政選挙の実施を行った。ただし、改憲は憲法本文を形式上を残し、追加修正条項を設けた。これは一つの中国原則を主張する保守派への配慮であった。また、中国大陸を「大陸地区」と呼称し、外国として認めたわけではない。

また、中華民国政府は、今日まで中華人民共和国を正式に承認していない。国民政府の一つの中国原則では、外モンゴルの領有も主張しており、現在のモンゴル国とも正式な外交関係がなく、実務関係と代表部の設置に留まっている。中華民国政府は、中ソ友好同盟条約を正式に破棄した1953年にモンゴル国独立の承認を取り消したとしてきた[4]。しかし、馬英九政権下の2012年には、大陸委員会が、1946年の中華民国憲法制定の時点でモンゴル国の独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」にモンゴル国は含まれないとの資料を発表した[5]

台湾での国政選挙の実施により、中華民国は事実上の台湾国家となり、戒厳令前の国民政府のいう「法理独立」は達成された。残る問題は、中国大陸の中華人民共和国政府との関係や、台湾・中国大陸を包摂する全中国に関する定義づけであった。これに関して、政府、一国二政府また二国論(一中二国、特殊な国と国の関係。両国論)が提起された。「総統民選期の中華民国」も参照

李登輝総統の両国論について、民進党は支持し、また心理的に抵抗を覚えた連戦も余儀なくされ、宋楚瑜もあからさまに反対できなかった。そのため、両国論は一定程度、台湾の各政党に引き継がれた。選挙終了後、しばらくは李登輝が国民党党首として民進党の陳水扁政権に協力し、宋楚瑜が親民党を結成したため彼と国民党の対立が増した。その間は、各党の見解に大きな変化はなかった。

だが、2001年に李登輝が台湾団結連盟を結成し、国民党から除名されると、与野党の対立が顕在化した。民進党と台湾団結連盟からなる泛緑連盟と、国民党と親民党からなる泛藍連盟に色分けされるようになる。泛緑連盟は台湾アイデンティティを強調した選挙戦を行い、一方、泛藍連盟は支持基盤である外省人や本省人保守派を固めるため、中国アイデンティティを誇示し、中国との融和を主張するようになる。
民進党・陳水扁政権

民進党は、党綱領(台独党綱(中国語版))で「台湾共和国」の設立を目標と掲げていた。しかし、2000年総統選挙での政権獲得を目指すため、中華民国の存在を承認し、台湾独立を放棄もしくは棚上げすることで主要派閥が合意した。しかし、党内には急進派の「台湾独立建国連盟」に属する者や党外の協力者や支持者にも配慮する必要があった。そのため党綱領と並ぶ基本文書として、台湾前途決議文を1999年5月8日に高雄で開催された全国党員大会において採択し、党綱領の台湾独立を棚上げすることが規定された。
四不一没有

成立当初の陳水扁政権は、李登輝総統よりも保守的な方針を「四不一没有」で示した。そのため李登輝総統からは、自らの進めてきた中華民国の台湾化に逆行すると批判された。陳水扁は、1990年代から旧東西ドイツをモデルとした中間協定の締結を主張し、1999年には当時の林義雄民進党主席と共に中国とのFTA締結を主張していた。2000年大晦日(2001年元旦未明)には統合論を提示し、まずFTAなど経済統合から始め、長期的には政治統合や文化の統合に至ると述べた。これは、「特殊な国と国の関係」論において、李登輝前総統が無視した「特殊な関係」の実現を目指したものであった。背景には、米国が中華人民共和国との交渉を仲介するとの期待や、積極的に中華人民共和国と交渉し、条約を締結することで、中華民国の国家としての地位を確定させるという目論見(「強本西進」論)があった。

しかし、中華人民共和国は「四不一没有」に対して「行動を見守る」と述べるにとどまった。FTA締結に対して一部官僚が反応したものの、「強本西進」の目的に気づき、その後反応を見せなくなった(2003年に香港とCEPAを締結後、台湾にもCEPAを提案した)。その一方で、中華民国を承認する国に、承認切り替えを迫り続けた。
一辺一国

中華人民共和国の態度が軟化しないため、2002年、陳水扁政権は「強本西進」から転換を始める。また、2001年立法院選挙で過半数を逃し、政権運営上、李登輝総統を精神的首領とする台湾団結連盟の協力が必要であったことも原因の一つに数えられる。

陳水扁総統は2002年8月の民進党全国党員大会で党主席に就任しました。しかし、その当日、中華人民共和国は中華民国を承認していたナウルとの国交樹立を発表した。台湾では中国の「引き出物」=嫌がらせと受け止められ、面子を潰された陳水扁総統は、同月、世界台湾同郷会(英語版)への挨拶で「中国と台湾は、一辺一国(別々の国)である」と述べた。中国はこれに反発。しかし、実際には陳水扁政権による関係改善に向けた提案をあしらった結果であった。こうして台湾政府が中国との関係改善に積極的で、具体的な提案を行った時期は終了した。ただし、その後も陳水扁総統は、中国に善意があれば、いつでも関係改善が可能との立場を崩していない。中間協定や統合についても、中国が中華民国を承認すれば協議に応じる、と機会がある毎に述べている。
中国国民党
国家連合構想

連戦は2000年総統選挙期間中、李登輝の後継者であったため、二国論を支持していた。


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