台湾問題
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但し、1951年日本が連合国側諸国と締結した平和条約(サンフランシスコ平和条約)では日本の「台湾・澎湖諸島における権利、権利名義と要求の放棄」(第2条第2項)しか取り決められておらず、更には日華平和条約においても「台湾における日本の領土権の放棄」(第2条)しか明記されていない。そのため、現在に至るまで国際法的には台湾の主権移転対象(帰属先)については不明確な状態にあり、これを根拠に台湾の国際的地位はまだ決まっていないとする「台湾地位未定論」も唱えられている。
国共内戦から現在

中華民国政府は台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれていた。1946年から激化し始めた国共内戦は、当初は中華民国政府が優勢であったものの、年を経るごとに中国人民解放軍が優位な立場を占めるようになり、中華民国政府は少しずつ、しかし確実に支配地域を中国共産党に奪われていく状況にあった。このような状況は1949年になると急速に進展し、中華民国政府は4月に首都の南京を人民解放軍に制圧され、10月には中国大陸の大部分を制圧した中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言するまでになった。

そのため、人民解放軍に対してまともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府は台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産などを続々と台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなったため、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止したが、1954年1955年1958年に台湾へ攻撃を再開し(台湾海峡危機)、1965年にいたるまで軍事干渉を続けた。以降、大規模な衝突にはいたっていないが、緊張関係は続いている。詳細は「台湾海峡危機」を参照

他方、?介石は、二・二八事件における数々の虐殺行為や、台湾省戒厳令(中国語版)を敷き、白色テロによる支配を行ったため、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、?介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある[2]。また、?介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退したため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったとする見方もある。詳細は「?介石」を参照

現在でも、台湾社会では世代によって民族的アイデンティティーや使用言語が異なるケースも少なくない。また、原住民を祖先とする独自の台湾人なのか、中国人の支流としての台湾人、あるいは中国人そのものなのか、という帰属意識の分岐も存在している。
二重承認問題

中華人民共和国政府は「一つの中国」原則を主張し、二重承認を絶対に認めない立場を取っている。

中華民国は李登輝総統に就任した後、中華人民共和国とは別個の国家としての「中華民国」の地位を明確化しようとし、二重承認を容認する動きも見られた。1989年グレナダと国交樹立した際、同国に中華人民共和国との断交を求めなかった。一方、中華人民共和国は同国と断交し、二重承認とはならなかった。

今日、二重承認が実現せず、また中華民国を承認する国は年々減少している。中華人民共和国が態度を軟化させない以外に、その理由として、以下が挙げられる。
1997年7月香港返還に伴う在香港総領事館の存続問題である。ネルソン・マンデラ政権下の南アフリカ共和国は二重承認に踏み切ろうとしたが、総領事館を設置していた香港英国属領から中華人民共和国の特別行政区に切り替わったことで、総領事館の設置に際して中華人民共和国から同国の承認と中華民国の国家承認取り消しを求められた。そうしない場合、領事特権のない代表部に格下げすると迫られた。航空便も乗り入れ、台湾・香港系移民も多い南アフリカ共和国が香港との関係を維持するためには中華人民共和国との関係構築が避けられず、中華人民共和国との長期的な経済関係拡大も見越して1997年限りで中華民国の承認を終了、1998年に中華人民共和国を承認し、外交関係を開設した[3]

中華人民共和国が国際連合安全保障理事会常任理事国であり、拒否権を有していることである。しかし、中華人民共和国が現実に拒否権を行使した例は2006年までは3回しかなく、少なかった。中華人民共和国を承認していない国が安保理で扱う議題の当事国となった場合、有利な案件は否決され、不利な案件は可決されるリスクを負う。具体例はマケドニア共和国(現在の北マケドニア共和国)である。同国は一度「中華民国」を承認したものの、国連PKOの派遣に関する決議を中華人民共和国に妨害されることを恐れて撤回した。

「中華民国」を承認する国は台湾の潤沢な経済力を背景に、経済援助を目当てにしている国が多い(またこれは中華人民共和国を承認する国も同様である)。こうした国々は、アフリカ中央アメリカ南太平洋の島々を中心に存在する。いずれも小国であり、国連などの国際機関などで「中華民国」の参加や加盟に協力はするが、それを実現させるほどの政治力を持っていない。少数でも承認してくれる国家があることは、主権国家としての存続に必要不可欠だと歴代台湾の「中華民国」政権は認識している。

台湾において民進党出身の陳水扁政権も同様である。陳水扁は総統就任直後、「四不一没有」(4つの拒否と1つのない)を表明し、独立路線の棚上げと対中関係の改善を目指した。ところが、2002年8月に陳が民進党主席に就任した日、中華人民共和国政府はナウルに承認切換を行わせた。これに反発した陳は「一辺一国」発言をした。中華人民共和国も経済援助を用い、「中華民国」を承認する国々を切り崩し続けた。そのため、陳政権にとっては「中華民国」を承認する国を確保することが緊急の課題となり、「一辺一国」発言に沿うはずの二重承認の実現まで手が回らなくなった。そのため、台湾側も政府承認の切替のみに注力する結果となった。

台湾の国際参加と名称問題

中華民国が国際機構や主要国に認められなくなったため、台湾の国際参加には様々な障害が伴っている。そのため、実際には領域としての参加を余儀なくされている。その場合、台湾の呼称が政治問題化する場合も多い。国際社会に於ける主な台湾の名称には、以下がある。

チャイニーズタイペイ(Chinese Taipei 中華台北):
世界貿易機関 (WTO)、アジア太平洋経済協力 (APEC)、世界保健機関(WHO)

タイペイ・チャイナ(Taipei,China 中国台北):アジア開発銀行 (Hong Kong, Chinaとスペース表記なしで区別する)

IOCやFIFAなどスポーツの国際機構には、国家承認問題を棚上げしたまま、チャイニーズタイペイという地域として参加している。

また中華人民共和国を承認しない場合では北京当局、中華民国を承認しない場合は台湾当局という呼称を使用する場合がある。
台湾問題に関する各勢力の意見・法的扱い
中華民国

台湾移転後も中華民国政府は、「中国を代表する正統な国家」としての立場を継承する立場にあることを主張した。国民政府が台湾地域のみを統治することを内戦中の一時的な措置とした上で、台湾を含めた全中国の領有権を主張してきた。また、自由地区(台湾を指す)のみによる選挙の実施は全中国の代表性を損なうと主張し、民主化運動を法理独立と見做し、弾圧した。「中国国民党による一党独裁時代の台湾」も参照

?経国政権は戒厳令を解除し、中華民国が中国大陸を実効支配していない事や中華人民共和国政府への対応を始めた。国家統一委員会の設置、それによる国家統一綱領の制定、さらに中華民国憲法の改正[注釈 2]により、「自由地区」(台湾)における国政選挙の実施を行った。ただし、改憲は憲法本文を形式上を残し、追加修正条項を設けた。これは一つの中国原則を主張する保守派への配慮であった。また、中国大陸を「大陸地区」と呼称し、外国として認めたわけではない。

また、中華民国政府は、今日まで中華人民共和国を正式に承認していない。国民政府の一つの中国原則では、外モンゴルの領有も主張しており、現在のモンゴル国とも正式な外交関係がなく、実務関係と代表部の設置に留まっている。中華民国政府は、中ソ友好同盟条約を正式に破棄した1953年にモンゴル国独立の承認を取り消したとしてきた[4]。しかし、馬英九政権下の2012年には、大陸委員会が、1946年の中華民国憲法制定の時点でモンゴル国の独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」にモンゴル国は含まれないとの資料を発表した[5]


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