台湾原住民
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シラヤ族 2005年台南市により認定、2013年富里郷により認定[8][9]

マカタオ族(シラヤの一支とも) 2013年富里郷により認定。2016年屏東県により認定[10]

タイボアン族 2013年富里郷により認定[11]

未認定民族

一方、政府からも地方自治体からも未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。

ケタガラン族

クーロン族(ケタガランの一支)

バサイ族(ケタガランの一支)

トルビアワン族(英語版)(ケタガランの一支)

タオカス族

パゼッヘ族

パポラ族

バブザ族

ホアンヤ族

アリクン族(英語版)(ホアンヤの一支)

ロア族(英語版)(ホアンヤの一支)

これに加えて、現在「原住民族」として認定されている

サオ族

クバラン族

も歴史的には平埔族に分類されていた。

「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。

平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。

サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。

また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。

他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
研究史

台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者人類学者民俗学者言語学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)、ニコライ・ネフスキー(1892年 - 1937年)、らである。彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。
言語

オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシアフィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似[12]や北米先住民族の諸語、南米先住民[13]の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている。

大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。

『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。

その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。

部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられた。
遺伝子

台湾先住民にはY染色体ハプログループO1a系統が66.3%[14]-89.6%[15]の高頻度で観察される。
風習
入れ墨

台湾原住民族にとって、入れ墨通過儀礼の一つである。男女を問わず、顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。しかし日本統治時代に入れ墨は禁止となり1940年代には衰退した[16]。戦時中に台湾特別志願兵制度が導入され、入れ墨が採用の妨げになると噂されたことも、入れ墨の伝統が後退するきっかけとなった。
出草(首狩り)

台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異民族の構成員を殺し、その首を切り落とす風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。また、この行為には宗教的な意味もあった。

狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。

この習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。また、日本の武士が敵の首を切り落とす文化にも共通のものがある。

大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アミ・サイシャットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤミ族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。

出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。

日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。[要出典]

1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押収によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。

台湾総督府史料などを基にした説によると、1896年(明治29年)から1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。

日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。

出草を巡る阿里山原住民に関する呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
出草の動機

大形太郎『高砂族』(1942年)によると、

壮年の班に加わろうとする時

争いの正否を決定しようとする時

悪疫の流行を払おうとする時

嫌疑を解き、または冤罪を濯ごうとする時

娶婦の競い(結婚女性の獲得)に勝とうとする時

自己の武勇を誇ろうとする時

凶兆ある場合、不吉を未然に払おうとする時

自己の恨みを霽〔は〕らそうとする時

死後に楽土に入る資格を得ようとする時


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