台湾光復
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一方で大陸からは国民党の台湾支部である「国民党台湾省執行委員会」が福建省から台湾に移転してきたのをはじめとして、「祖国同胞」であり、かつ新しい統治者である外省人や「半山」台湾人の政府関係者が続々と来台してきた[13]。台湾の接収に際して、国民党は日本が無条件降伏する前の1944年4月17日に「台湾調査委員会」を組織して接収工作の準備を進めていたが、長年の間台湾を統治してきた台湾総督府に代わって、台湾の新たな統治機関として設置されたのが「台湾省行政長官公署」であった[13]

行政長官公署は、「祖国」へ復帰した台湾から日本的色彩を排除するために次々と「脱日本化」の処理を打ち出した[14]。まず変更が求められたのが、「名称」であった[14]。1945年11月17日には、「台湾省各県市街道名称改正辨法」が制定され、各県市の政府成立後2か月以内に、「甲;日本の人物を記念する名称」(明治町・大正町・児玉町・乃木町など)、「乙;日本の国威を宣揚する名称」(大和町・朝日町など)、「丙;明らかに日本名である名称」(梅ヶ枝町・若松町・旭町など)を「甲;中華民族精神を発揚する名称」(中華路・信義路・和平路など)、「乙;三民主義を宣伝する名称」(三民路・民権路・民族路・民生路など)、「丙;国家の偉大な人物を記念する名称」(中山路・中正路など)に変更することが定められた[14]。続いて翌12月には、「台湾省人民回復原姓名辨法」が公布され、皇民化運動で日本名に変更した者の名前の「祖国化」が図られた[14]。原住民に至っては、中国名を自身で選び届け出ることとされ、日本統治時代の「高砂族」が「高山族」に改められると同時に、「土蕃・蕃族・蛮族」といった差別的呼称の使用禁止が通達された[14]
脚注
注釈
^ このようにカイロ宣言は日本敗戦後の台湾の主権の帰属について明確な主張をしている。日本は、このカイロ宣言の発表後も投降しなかったので、同盟国は早期に戦争を終結させるため再度「ポツダム宣言」を発表し、カイロ宣言の主張を繰り返した。このため中華民国、中華人民共和国の双方がカイロ宣言を根拠として「台湾の主権を有している」と主張しているのである(後掲「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項)
^ しかし、中国語の基礎知識を持つ者であれば、この言葉が祖国復帰を表すことは容易に分かるはずだが、日本による皇民化教育を受けた若い世代の中には、「光復」の意味が分からず、日本語で同じ音の「降伏」と理解するものも多かった(後掲周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社197ページ)

出典
^ 自由時報. “台灣光復無國際法源依據 學者?:?介石也?”. 2024年2月22日閲覧。
^ 風傳媒. “是台灣光復節,還是國民政府?領日??「10月25日」背後的?史爭議,身為台灣人一定要知道”. 2024年2月22日閲覧。
^ a b 呉(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項
^ a b c d e f 若林(1999年)62ページ
^ 周(2013年)197ページ
^ 呉(2010年)224ページ「ポツダム宣言」の項
^ a b c d e 伊藤(1993年)137ページ
^ a b 伊藤(1993年)138ページ
^ a b c 周(2013年)204ページ
^ a b 伊藤(1993年)141ページ
^ a b 伊藤(1993年)139ページ
^ 伊藤(1993年)140ページ
^ a b c d e f g h 菅野(2011年)35ページ
^ a b c d e 菅野(2011年)39ページ

参考文献

呉密察監修、横澤泰夫日本語版編訳「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)中国書店(福岡)

若林正丈「台湾?変容し躊躇するアイデンティティ」(1999年)ちくま新書

伊藤潔「台湾?四百年の歴史と展望」(1993年)中公新書

周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社

菅野敦志著『台湾の国家と文化 「脱日本化」・「中国化」・「本土化」』(2011年)勁草書房

関連項目

台湾光復節

光復節 (韓国)


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