台湾の歴史
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中華民国軍兵士の強奪、官吏の腐敗ぶりには目に余るものがあり、軍の占領後間もないころから、本省人は新たな支配者に失望し始め、「犬が去って、豚が来た」と嘆くようになった[11]。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いという意味である[11]。この例は、第二次世界大戦が終わった途端に東欧各地で「ファシズム的君主制が終わったら、共産党による一党独裁が始まった」様相と同じ現象である。

なお、日本は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)や日華平和条約において台湾の領有権を正式に放棄したものの、両条約ではいずれも台湾の中華民国への返還(割譲)が明記されていない。そのために現在では、台湾は中華民国によって実効支配されているだけであり、最終的な帰属は未定であるとの解釈(台湾地位未定論)も存在する。
中華民国政府(1949年 - 1996年)1951年1月、初の台北市市長選での圧勝 (65.5%) を祝う国民党以外の政治家である呉三連 (2L)1960年6月の台北訪問時にて、?介石総統の隣で観衆に手を振るドワイト・D・アイゼンハワー米大統領国共内戦は深刻なインフレーションの原因となった。画像は百万旧台幣の単位で発行された通貨

台湾に逃れた?介石は戒厳令を敷いて不穏分子を取り締まり、特に本省人の知識人を弾圧した。一方で大陸から台湾に逃れた数十万の軍人を養うためにも大規模開発が必須であったことから、大陸から運び込んだ莫大な資金を用いて開発独裁が行われた[12]。鉄道の北廻線や蘇澳港開発など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へ発展していく。

一方大陸を完全に掌握し中華人民共和国を樹立した共産党は、台湾攻略を目標とした金門島攻撃に着手した(台湾海峡危機を参照)。しかし海軍及び空軍兵力に劣る人民解放軍は有力な制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる中華民国軍や台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破することができず、侵攻を放棄した。

共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、?介石に種々の援助?美援(美国援助=米国援助)を与えた。ベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に突入することになる。

かつては日本領であった経緯から、台湾は日本との経済的繋がりが強かったが、このころから台湾経済はアメリカ経済との関係を親密化させていく。多数の台湾人がアメリカに留学、そのままアメリカに在住し台湾とのビジネスを始めるなど、太平洋横断的なネットワークが構築され、中でも台湾人が多く住んだカリフォルニアの影響を受けて電子産業が育ち、Acerなどの国際メーカーが誕生した。

政治的には国民党独裁が続き、台湾の民主化運動は日本、後にアメリカに移住した台湾人を中心に展開されることとなった。しかし1970年代に入ると美麗島事件が発生し、その裁判で被告らを弁護した陳水扁謝長廷らを中心に台湾内で民主化運動が盛んになる(党外運動)。また1984年には、国民党の内情を記した「?経国伝」を上梓した作家・江南こと劉宜良が、滞在先のサンフランシスコで、中華民国国防部軍事情報局の意を受けたチャイニーズ・マフィアに殺害される「江南事件」が発生。レーガン政権が戒厳を解除するよう圧力を掛ける。

1987年に戒厳令解除に踏み切った?経国(総統在職:1978年?1988年)の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出された。

社会的には?介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立(省籍矛盾)、さらに本省人内でも福老人と客家人の対立があったが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指した。

国際的にはアメリカの庇護下で、日本、韓国、フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至った。しかしアメリカは自由陣営保持の観点から台湾関係法を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。
動員戡乱時期終了後(1996年 - 現在)「総統民選期の中華民国」を参照

李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進したが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民主進歩党(民進党)の陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した[1]。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突し、政局は混迷を続けた。

2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。混迷の原因の一つは中国問題で、中国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しているが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっている。2008年の総統選挙では国民党の馬英九が当選し、〈両岸対等,共同協議,市場拡大〉を掲げて中国市場を意識した経済政策重視の路線が進められ、中国との間で「三通」(通商・通航・通郵)を実現させたが、2014年に海峡両岸サービス貿易協定締結を強引にすすめる馬政権に反発した学生たちがひまわり学生運動を起こして撤回に追い込んだ[1]

一方の当事者であるアメリカ自身、中国に対する脅威論、友好論が錯綜し一定の方針が定まっていないため、対台政策も一貫せず、台湾は独自性を強めざるを得ないとの見方もある。そのために日本を対中包囲網の一環に組み込もうとする遠謀も、李登輝などの親日政治家には見られるとされない。

一方で台湾は中国との経済的関係を強化しつつあり、今や中国経済を抜きに台湾経済が成り立たない情況となっている。基幹産業であった電子産業も中国への工場進出による産業の空洞化が進み、台湾政府は新竹や台南にサイエンスパークを設置して、バイオテクノロジーなどの先端産業の育成を図っているが、欧米との競争もあって情況は楽観できない。

また経済の知的集約化、サービス化の進展により台北への人口集中が進み地方との格差問題も顕在化している。景気低迷による格差拡大、出生率低下による高齢化、東アジア随一の離婚率の高さなど、社会の成熟による問題も噴出している。

文化的には中国、日本、欧米の影響を強く受けていたが、ナショナリズムの高揚に連動するかのように、台湾独自の文化も勃興している。とりわけ映画界では侯孝賢などの台湾ニューシネマが有名である。

2016年中華民国総統選挙で民進党の蔡英文が国民党の朱立倫を破って当選し、初の女性台湾総統となった[13]。蔡政権は、2020年の新型コロナウイルスのパンデミックに対して素早い防疫対応を行い、感染拡大の防止に成功している。9月1日、中国とは国交があり台湾と外交関係がないチェコから訪問中のミロシュ・ビストルチルチェコ共和国上院議長(英語版)が台湾の立法院で演説し、共産主義と強圧的な政権に反対の立場を示し、台湾の人々を支持すると演説し、最後は「わたしは台湾人だ」と中国語で締めくくった[14]

蔡英文総統は、『文藝春秋』2021年9月号のインタビューで、「民主主義自由人権は普遍的価値です。私共は北京当局に、香港やウイグルの人々への弾圧をやめるように呼び掛けていきます。日本も含めた民主主義陣営は、民主主義の価値を守るために今こそ団結すべきです」「北京当局は台湾に対し、香港と同じ『一国二制度』による統一を呼び掛けました。この制度が実現不可能であることは現在の香港によって証明されており、北京政府の言葉を信用するのは難しい。北京政府による『一国二制度』の提案は、絶対に受け入れられず、将来の選択肢にさえ入っていません」「台湾の一貫した立場は、『圧力に屈服せず、支持を得ながらも暴走しない』というものです」と中台統一を拒否した[15]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 厳密な統治開始終了月(日)が不明なため これだけ差異が生じえる。

出典^ a b c “台湾とは”. コトバンク. 2021年2月18日閲覧。


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