台湾の歴史
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だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[5]。漢榮書局(中国語版)発行の香港中学校歴史教科書副読本『風華再現──中國?代名人?』は、「帝皇與近代領袖篇」「名臣篇」「名將篇」「文學家篇」「文化思想家篇」「藝術家篇」「科學家篇」「抗日英雄篇」のなかの「名將篇」において、26人の名将の1人として鄭成功を教えている[6]

なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって「国性爺合戦」として人形浄瑠璃化された。
大清帝国統治時代(1683年 - 1895年)フランス人が描いた清の実際の支配地域台湾出兵時の日本兵詳細は「清朝統治時代の台湾」を参照

建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した(澎湖海戦)。

だが、清は鄭氏政権を滅ぼすために台湾を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾を領有することに消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。

ただし清は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかったために統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。[要出典]なお現在、中華民国中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清の主権が及んでいたと主張している。

大清帝国編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。

この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、大清帝国の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、さらにはマラリアデング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったため、台湾では内乱が相次いだ。

なお、大清帝国は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。

19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、1858年アロー戦争に敗れた大清帝国が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南の安平港基隆港が欧州列強に開港されることとなった。その後イギリスを中心に、領事館や商社の進出があった。

1867年、米国船ローバー号が、台湾南端の鵝鑾鼻半島で難破し、上陸した際に、現地原住民族によって殺害されるという事件が起こった。当時、厦門(アモイ)にて米国領事を務めていたチャールズ・ルジャンドルが台湾へ来て、現地原住民の頭目と以後の難破船処理についての条約を結び、清に対しては、海難防止のため鵝鑾鼻への灯台建設と、原住民族牽制のための軍営の設置を約させたが、実現しなかった。

次いで1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古島八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古島の船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。

日本政府は清政府に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行われ、前米国領事のルジャンドルは日本政府の顧問に就いた。1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。

これに伴い、清は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して福建台湾省(台湾省)を新設した。台湾省設置後の清は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年基隆台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めた。

だが、1895年に清が日清戦争に敗北したため、同年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は遼東半島澎湖諸島とともに大清帝国から大日本帝国に割譲された(三国干渉により遼東半島は清に返還)。これに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。

これ以降、台湾は日本の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。
日本統治時代(1895年 - 1945年)1912年の日本及び台湾の地図。1895年から1945年まで、台湾は大日本帝国の一部だった。1901年の台湾の地図。赤線は日本統治のおおよその境界線を示している。1897年、台北市に設置された台湾銀行本店台湾に建立された多くの神社のうちの1社である嘉義神社台湾原住民から採用された日本軍の1部隊である高砂義勇隊詳細は「日本統治時代の台湾」を参照「日本統治時代の台湾行政区分」、「台湾総督府」、および「台湾軍 (日本軍)」も参照

台湾が本格的に開発されたのは日本統治時代になってからである。1895年5月25日、日本への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され、進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、1896年に「三一法」が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。

農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬?米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している[要出典]。

また初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していた。その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した[要出典]。

台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり日本国民になるかを選択させた。日本への編入時に併合に反対した台湾住民は、1898年に発布された「匪徒刑罰令」によって処刑され、その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。

また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止とした。


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