台湾の歴史
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台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダ東インド会社である。東インド会社はまず朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功している。

オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されていった。
鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)詳細は「鄭氏政権 (台湾)」を参照

1644年李自成の反乱によって朝が滅亡し、混乱状況にあった中国満洲民族の王朝であるが進出してきた。これに対し、明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡させられた。そのため、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾のオランダ東インド会社を攻撃し、1662年に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。鄭経の治世に建立された台湾孔廟

東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台湾を「反清復明」の拠点にすることを目指したが1662年中に病気で死去した。そのために、彼の息子である鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反清復明」の拠点化を進めたが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代 実質21?23年間[注釈 1]で終了した。

歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たすことなく死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるため、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[5]。漢榮書局(中国語版)発行の香港中学校歴史教科書副読本『風華再現──中國?代名人?』は、「帝皇與近代領袖篇」「名臣篇」「名將篇」「文學家篇」「文化思想家篇」「藝術家篇」「科學家篇」「抗日英雄篇」のなかの「名將篇」において、26人の名将の1人として鄭成功を教えている[6]

なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび江戸幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいものであると幕府側に判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって「国性爺合戦」として人形浄瑠璃化された。
大清帝国統治時代(1683年 - 1895年)フランス人が描いた清の実際の支配地域台湾出兵時の日本兵詳細は「清朝統治時代の台湾」を参照

建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した(澎湖海戦)。

だが、清は鄭氏政権を滅ぼすために台湾を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾を領有することに消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した(台湾道(中国語版)、1684年-1885年)。

ただし清は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかったために統治には永らく消極的であり続け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてきた。その結果、台湾本島における清の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。[要出典]なお現在、中華民国中華人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清の主権が及んでいたと主張している。

大清帝国編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。

この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、大清帝国の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食いはぐれた貧窮民が多く、さらにはマラリアデング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかったため、台湾では内乱が相次いだ。

なお、大清帝国は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。

19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、1858年アロー戦争に敗れた大清帝国が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南の安平港基隆港が欧州列強に開港されることとなった。その後イギリスを中心に、領事館や商社の進出があった。

1867年、米国船ローバー号が、台湾南端の鵝鑾鼻半島で難破し、上陸した際に、現地原住民族によって殺害されるという事件が起こった。当時、厦門(アモイ)にて米国領事を務めていたチャールズ・ルジャンドルが台湾へ来て、現地原住民の頭目と以後の難破船処理についての条約を結び、清に対しては、海難防止のため鵝鑾鼻への灯台建設と、原住民族牽制のための軍営の設置を約させたが、実現しなかった。

次いで1871年、宮古島島民遭難事件が起こった。これは、宮古島八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古島の船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害された事件である。

日本政府は清政府に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行われ、前米国領事のルジャンドルは日本政府の顧問に就いた。1884年 - 1885年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。

これに伴い、清は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して福建台湾省(台湾省)を新設した。台湾省設置後の清は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年基隆台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めた。

だが、1895年に清が日清戦争に敗北したため、同年4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は遼東半島澎湖諸島とともに大清帝国から大日本帝国に割譲された(三国干渉により遼東半島は清に返還)。これに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。

これ以降、台湾は日本の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。
日本統治時代(1895年 - 1945年)1912年の日本及び台湾の地図。1895年から1945年まで、台湾は大日本帝国の一部だった。


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